2005年10月

2005年10月30日

鵜の木駅(東急多摩川線)・・・河原坂・・・富士見坂・・・増明院・・・光明寺・・・ぬめり坂・藤森神社・・・宮坂・・・久が原東部八幡神社・・・呑川・・・第2京浜国道・・・貴船坂上・・・おいはぎ坂・・・大田区立郷土博物館・・・相生坂・富士見公園・・・道々橋(呑川)・・・御嶽神社・・・御嶽山駅(東急池上線)

 環8通り沿いの光明寺には以前は池があり、大きなザリガニがうようよいた記憶があります。ぬめり坂は鎌倉街道筋(平間道)で、多摩川の平間の渡し(現在のガス橋付近)に結ばれていたそうです。この坂には人柱の哀しい言い伝えがあります。宮坂は久が原東部八幡神社脇の小さな坂です。むしろ坂上から東方向へ曲がりながら下る坂のほうが坂らしい感じがしました。この坂は下って呑川を越え、第2京浜国道を渡り本門寺裏手へ続いています。

 区立郷土博物館へ常設展示室の「大昔の大田区」を見に寄りました。版画か何かの特別展で展示室が使われていて見学できませんでした。無料とはいえ「常設展」の看板に偽りありと思いました。新幹線沿いに御嶽山駅まで歩き、御嶽神社に寄りました。酉の市の準備中でした。

 おいはぎ坂は、「大田区の坂-1」(2005年10月20日)・
  相生坂は、「大田区の坂-2」(2005年10月23日)に記載。
951
河原坂(坂下方向)地図 
鵜の木1-10と1-12の間を北に上り、鵜の木公園脇を北東に上る。
鵜の木2、3丁目付近は昔は多摩川の河川敷で河原と呼ばれていた。
この河原に出る坂道の意。今は切通しの坂だが、
昔は狭く急で河原の畑を往来する荷車などは大そう難渋したという。
952
富士見坂(坂下方向) 
鵜の木1-15と1-17の間を東に上る。地図
昔は坂上から多摩川越しに富士山がよく見えたのだろう。
953
坂上方向
954
ぬめり坂(坂上方向) 
南久が原1-25と2-30の間を北に上る平間道地図
この坂はなだらかではあるが、ぬめって上れなかった。
付近の富豪の美しい娘が人々の難渋を気の毒に思い、
自ら坂に生埋めとなった。
以来、通行が容易になり、付近は大いに繁栄したという伝説の坂。
昔は多摩川は東急多摩川線のあたりを流れていたらしく、
このあたりは低地で、水が出ればすぐ水浸しになり、
道はぬめってしまったのだろう。
955
坂上方向
956
無名の坂(宮坂の近く)
下って上る、くねった感じの坂。
957
宮坂(坂上方向) 久が原2-18と2-19の間を北に上る。地図
坂上に久が原東部八幡神社がある。
958
久が原東部八幡神社
959
坂下方向










2005年10月28日

洗足池駅(東急池上線)・・・洗足坂・・・稲荷坂②(石川町)・・・神明坂・・・稲荷坂③(北千束)・・・北千束駅(大井町線)→(大岡山駅)→田園調布駅(目黒線)・・・急坂・・・馬坂・・・浅間様古墳(穴八幡)・・・宝来山古墳・・・多摩川台古墳群・・・亀甲山古墳・・・古墳展示室・・・どりこの坂・・・田園調布坂・・・出世稲荷・・・富士見坂①・・・浅間神社古墳・・・おいと坂・・・桜坂・・・鵜木大塚古墳・稲荷神社・・・雪が谷大塚駅(東急池上線) 

 今日は主に多摩川近くの坂と古墳を歩きました。洗足坂は日蓮上人の故事が残る、洗足池沿いの中原街道です。石川町の稲荷坂は上の台公園の脇を上る細く短い坂です。以前、坂の南側に稲荷神社があったそうです。田園調布5丁目にある急坂と馬坂は、丸子川まで下る急で長い坂です。宝来山古墳、亀甲山古墳は公園として整備されよく保存されて、公園内に古墳展示室があります。

「どりこの」という清涼飲料水を開発した人の屋敷があったという「どりこの」坂です。田園調布坂は田園調布2丁目に「田園調布坂上」というバス停があり、坂になっています。 実際にこの坂名で呼ばれているかは未確認です。富士見坂を下り多摩川線を渡ると浅間神社があります。神社は古墳の上に建てられています。多摩川駅の近くです。

 おいと坂は多摩川線の沼部駅のそばで、坂下に雄井戸と呼ばれる井戸があり、北条時頼の故事も伝わっています。おいと坂の坂下から北東に上るのが桜坂です。桜の頃は桜のトンネルといった感じで見事でした。 『大田区の坂道』によると、この坂は旧中原街道の切通しで、昔は「沼部の大坂」といい、勾配がきつく荷車などの通行は大変だったそうです。この坂は子供の頃に多摩川へ遊びに行く時に、自転車でよく上り下りした坂です。長い坂で下りは楽で気持ちよかったですが、上りはちょっときつかったです。

 鵜木大塚古墳は環8通りと中原街道が交差する雪谷大塚町にあります。昔、住んでいた近くにこんな古墳があるとは知りませんでした。雪谷大塚の名もこの古墳の名からきているそうです。
854
洗足坂(坂上方向) 
池上線洗足池駅と洗足池の間を北東に上る中原街道 地図
(江戸虎ノ門から平塚の中原御殿に通じる東海道の脇往還・裏街道)
古い地名は千束で、のちに日蓮が身延山から常陸に湯治に向う途中、
ここの池で休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、
千束の一部が洗足、池が洗足池となった。
大正時代に改修されるまでは、もっと短く急な坂だった。
品川道の道筋でもある。
IMG_3322
洗足池
IMG_3323
案内板
855
坂下方向
今は長く緩やかなただの車道
856
稲荷坂②(坂下方向) 
石川町1-3と1-4の間を曲がりながら東に上る。地図
かつて坂の南側に稲荷社があった。
もとは洗足池の脇から世田谷区の九品仏へ通じた古い道。
857
坂上方向
858
神明坂(坂上方向) 
石川町1-3と1-31の間を南東に上る。 《地図
昔、坂のそばに石川村の鎮守の神明社があった。
現在の石川神社のこと。(坂の北側の石川町1-20)
859
稲荷坂③(坂下方向) 
南千束2-9と北千束2-36の間を東方向に上る。地図》 
昔、坂の付近に稲荷社があった。
大正時代には稲荷社はすでになかったという。 
860
坂下方向
北千束駅(大井町線)→(大岡山駅)→田園調布駅(目黒線)
861
急坂(坂下方向) 
田園調布5-27と5-28の間を北西に上る。地図
長い坂で坂上近くで傾斜がきつくなる。「5丁目の急坂」とも呼ばれる。
大正末期に耕地整理によりできた坂道。
862
坂上方向
863
坂上方向
864
馬坂(坂上近く) 
照善寺脇から田園調布5-3と5-29の間を北方向に上る。地図 
大正頃までこの付近で、馬で引く荷車で上れる唯一の坂だった。
寺の坂の別名もあった。
大正から昭和にかけての耕地整理以前は竹薮の中の坂道だったという。
865
坂上から(右に坂標)
866
坂下方向
867
坂上方向
868
無名の坂(急坂と馬坂の間)
869
無名の坂
正面は多摩川を挟んで川崎市のビル
870
宝来山古墳(田園調布4-4)「説明板
前方後円墳、全長100m、4C中頃の築造。
872
墳丘図
873
多摩川台古墳群(田園調布1-63)「説明板
円墳、直径(10~20m)、6C前半~7C中の築造、
1~9号までだが1号墳は2号墳を利用して、一つの前方後円墳とした。
875
亀甲山古墳(田園調布1-63)
前方後円墳、全長100m、4C後半の築造。
876
後円部南側から
877
どりこの坂(坂上方向) 
田園調布2-27と1-51の間を東方向に上る。地図
昭和の初め頃、坂付近に「どりこの」という清涼飲料水を開発した
医学博士の屋敷があったのでこの坂名で呼ぶようになった。
それまでは池山の坂と呼ばれていたという。
「どりこの飲料」については、『レトロおじ散歩』の
「どりこの焼」の所に記事が載っています。
878
坂下方向
879
坂上近く
880
田園調布坂 
田園調布2-9と2-10,2-11の間を南東に上る福徳商店街の通り。地図
「田園調布坂上」のバス停がある。
881
出世稲荷(田園調布坂上近く)
882
富士見坂①(坂下方向) 
田園調布1-12と1-30の間を北東に上る。地図
かつては坂上から富士山がよく見えたという。
883
坂下方向
884
坂上方向
885
浅間神社古墳(田園調布1-55)「説明板
前方後円墳、全長約60m、6C前半の築造、竪穴式石室。
887
多摩川・東急東横線(川崎市方向)
夕陽の逆光が眩しい。
888
おいと坂(坂下から) 
田園調布本町24と25の間を東南に上る。地図
坂下に雄井戸と呼ばれる井戸があり、
旧中原街道の西側に雌井戸があったという。
北条時頼が雄井、雌井で病を癒したという伝説による坂名。
耕地整理で真っ直ぐな坂になるまでは、
竹薮の中の急な曲がった坂だったという。
889
坂上から
890
桜坂(坂上方向) 田園調布本町24と36の間を北東に上る。地図
中原街道の切通しの坂で、「沼部の大坂」といわれた急坂で
荷車の通行は大変だった。
坂の両側に大正時代に植えられた桜並木にちなむ名。
福山雅治の♪「桜坂」のモデルとなった坂。
891
坂上方向(歩道橋の上から)
892
坂下方向
かつては沼部の村落は荷車、旅商人の往来でにぎわい、
腰掛け茶屋などが坂道の両側にあったともいう。
坂下には六郷用水が流れていた。現在は湧き水を使って、
一部、散策路として整備されている。
893
鵜木大塚古墳(雪ケ谷大塚町14)地図
円墳、直径27m






















2005年10月25日

長原駅(東急池上線)・・・夫婦(めおと)坂・・・貝塚坂・・・庄屋坂・・・射水(いみず)坂・射水坂公園・・・相生坂②・・・鸛の巣(こうのす)坂・・・蝉坂・・・開光坂・開光坂公園・・・稲荷坂①・・・高倉稲荷・・・大久保坂・・・猿坂・・・花抜坂(上の写真)・・・雪見坂・・・権現坂・・・宮前坂・雪谷八幡神社‥石川台駅(東急池上線)

上池台付近は坂だらけという感じです。無名の急坂も多くあります。今は閑静な住宅街ですが、貝塚、蝉、猿、鸛の巣、庄屋など坂の名前に昔のこのあたりの様子が目に浮かんできます。射水坂は上池台4丁目の射水坂公園の前の坂、開光坂は3丁目の開光坂公園の前の坂です。

相生坂、鸛の巣坂は長原駅から学研(学習研究社)へ行く途中にあります。相生坂は小池の東側の向き合う坂です。昔、学研でアルバイトをしていた時は、朝夕にこの坂を往復したものです。 当時はむろん坂の名を知らず(坂にも関心が薄かった)、坂標も設置されていませんでした。

 花抜坂には日蓮に関する故事があります。坂上から池上本門寺の五重塔が望めます。花抜坂から石川台駅に向かう途中にも雪見坂などの急坂が並んでいます。
 
801
夫婦坂(北側の坂の坂上から) 
環状7号の夫婦坂交差点から北と南に上る坂。 《地図
向かい合う坂から夫婦にたとえた。
昭和初期までは、環状7号線も通ってなく、
急な狭く曲がった坂道で、竹薮、雑木林に囲まれた
昼なお暗い寂しい坂だった。
坂上は品川道で、この坂は平間の渡しへの平間道の道筋でもある。
802
貝塚坂(坂下方向) 
上池台4丁目と5丁目の間を東北に上る。
坂上で夫婦坂とつながる。地図
この周辺は古くは貝塚をともなう集落があった。
803
庄屋坂(坂下方向) 
上池台4-20と4-23の間を北西に上る。地図
付近に庄屋の家があった。庄屋の名は不明。
804
無名の急坂(上池台4丁目)地図
805
射水坂(坂下方向) 
上池台4-19の射水坂公園(写真の右側)の前を北東に上る。地図
昔はこのあたりに湧き水(射水)の洗い場があったのだろう。
806
相生坂②(南側の坂の坂上から) 
上池台1-39と1-38の間を北に下り、上る。地図
向き合う坂でこの名がついた。
相生坂①は東海道新幹線を挟んで平行する坂。
(「大田区の坂②」に記載)
807
鸛の巣坂(坂下方向) 
上池台4-37と4-42の間を北西に上る。地図
この付近は、かつて鸛の巣(こうのす山)と呼ばれ、
鸛(こうのとり)の巣があった。坂下にあった水路は、
「鸛の巣流れ」と呼ばれ、かつては用水路として使われていた。
808
蝉坂(坂上方向) 上池台3-7と3-10の間を北に上る。地図
この辺は池上村字蝉山と呼ばれていた。今は閑静な住宅街だが、
昔は木々に覆われた高台で、夏は蝉の鳴き声が絶えなかったのだろう。
809
坂下方向
810
開光坂 
上池台3-26の開光坂公園の脇を南に上る。地図
新しくつけられた公園の名だろう。
811
稲荷坂①(坂上方向) 
上池台5-6と5-15の間を東南に上る。地図》 
坂上(5-14)に玉倉稲荷がある。
812
玉倉稲荷神社
813
大久保坂(坂上方向) 
上池台5-17と5-18の間を南東に上る。地図
昔、大久保氏の屋敷があった。
814
坂下方向
815
猿坂(坂上方向) 
上池台5-22と5-24の間をカーブして北東に上る。地図
この辺の台地は森林が続き、猿が多く生息していた。
池上本門寺前から仲池上の根方を通り、猿坂から台地へ上り、
夫婦坂を経て荏原町へ達する古道で、
平間の渡しへの平間道の道筋でもある。
816
坂下方向
817
花抜坂(坂上から) 
東雪谷5-12と5-13の間を北西に上る。地図
日蓮が洗足池から池上に向う途中、この付近に美しく咲き乱れていた
野花を手折ったという伝説に因む。
昔は曲がった坂道で、両側は崖で、坂下は竹薮だったらしい。
ここは六郷田無道の道筋で、この先で矢口の渡しへと続く
平間道とも交差していた。
818
遠方に池上本門寺の五重塔が見える。
819
坂上方向
820
雪見坂(坂下方向) 
東雪谷3-14と3-16の間を北東に上る。地図
かつて、坂上から富士山の雪がよく見えた。
821
坂上方向
822
権現坂(坂下方向)地図 
東雪谷3-14と3-19の間を北西に上る。坂上で雪見坂の途中に出る。
この付近に権現社があり、権現山と呼んでいた。
坂の位置については異説もある。
823
宮前坂(坂上方向) 
東雪谷2-25と2-27の間を北東に上る。地図
雪谷八幡神社の前の坂。坂下の呑川の橋は宮前橋
824
雪谷八幡神社








2005年10月23日

西馬込駅(都営地下鉄三田線)・・・大尽坂・・・六郎坂・・・林昌寺・六郷田無道・・・子安八幡神社・・・八幡坂・・・相生坂①・・・弁天池公園・・・貴船坂・・・汐見坂・黒鶴稲荷神社・・・蓬莱坂・・・太田神社・・・めぐみ坂・・・堤方神社・・・呑川・・・池上本門寺‥妙見坂朗師坂此経難持坂(しきょうなんじざか)‥おんな坂紅葉坂‥弁天池公園‥五重塔‥大坊坂・・・車坂・・・本町稲荷神社・・・池上駅(東急池上線)

 坂道散歩にはもってこいの好天です。馬込は坂の町、気持ちのいい坂が沢山あります。東海道新幹線を挟んで平行する相生坂からは富士山が見えます。若い母親に連れられた幼な子が跨線橋で新幹線と富士山を見ながら遊んでいました。のどかなひとコマです。近くに富士見公園もあり、富士見坂と呼びたいと思いました。貴船坂、汐見坂、蓬莱坂は池上本門寺裏手の坂です。

 昔は大森海岸の景色が見えたという汐見坂。蓬莱坂の由来となった黒鶴が捕らえられた黒鶴稲荷神社は汐見坂の途中から入る石段の上にあります。この辺はどこも歩きがいのある坂でいっぱいという感じです。

 妙見坂から大坊坂は池上本門寺内の坂で、女坂は此経難持坂(男坂)の脇に平成14年に造られた新しい坂です。大坊坂の途中に宝塔があります。小学生の時、この寺に写生に来ました。私は宝塔を描きましたが思うように描けなかったことを思い出しました。本門寺の西側に沿う、両側を樹木が覆い、きれいにカーブする車坂を下って池上駅に向いました。
733
大尽坂(坂下方向) 
仲池上2-2と2-5の間を東方向に上る。右に坂標が立つ。地図
昔、大尽(財産家)が住んでいた。それが誰かは諸説あり不明。
734
坂下方向
735
坂上方向
736
六郎坂(坂上方向) 
仲池上1-10と1-13の間を北方向に上る。地図
江戸時代後期、池上村のために尽くした
海老沢六郎左衛門の屋敷があった。
この坂は古い道で、坂下の用水にかかる橋は六郎橋。
737
坂下方向
738
室町時代の文亀3年(1503)の開創の日蓮宗の寺で、
明治時代の神仏分離まで子安八幡神社の別当寺だった。
かつては猿坂あたりにも墓地があり広大な寺域だったという。
門前は六郷田無道の道筋
739
八幡坂(坂下方向) 
仲池上1-14と1-15の間を北東に上る。地図
子安八幡神社の脇の坂。
740
坂上方向
坂下方向には呑川が流れている。
741
坂下方向
742
子安八幡神社
743
相生坂(南側) 
仲池上1-2と上池台5-29の間に東海道新幹線を挟んで
平行して東に上る2つの坂。地図
(新幹線の北側と南側の坂)
744
正面上方に富士山が見える。
745
相生坂(北側)
746
貴船(きぶね)坂(坂下方向) 
中央5-8と池上1-7の間を北西に上る。地図
本門寺公園の中にあった本門寺の子院の一つの
東之院の貴船明神にちなむという。
明治の神仏分離により貴船明神は同寺院と分離され、
明治45年に太田神社に合祀された。
747
坂下方向
748
坂上方向
749
汐見坂(坂下方向)「説明板」 
中央5-14と5-15の間を西に上る。地図
かつては大森の海や舟の白帆、海苔ひび(海苔を付着させるため、
海中に立てておく木や竹の枝をたばねたもの)がよく見えた。
751
汐見坂と反対側に下る坂
752
蓬莱坂(坂上方向) 
中央5-20と5-23の間を北西に上る。地図
将軍家光の頃、稲荷神社の境内で吉兆の黒鶴が捕まったので
それを祝って名づけた。蓬莱とはその吉兆を象徴した名。
稲荷神社は黒鶴神社で、汐見坂の途中を北に入った所にある。
753
黒鶴稲荷神社
754
太田神社(中央6-3)
貴船坂の由来となった貴船明神が合祀されている。
神体の八幡大菩薩は、那須与一の守本尊と伝えらる。
755
めぐみ坂(坂上方向) 
池上1-19と1-20の間を堤方神社まで曲がりながら西北に上る。地図
坂途中にめぐみ教会がある。
以前は徳富蘆花の小説「富士」にも出てくる料亭「あけぼ乃楼」があり、
「あけぼの坂」と呼ばれていた。
あけぼ乃楼は明治大正期に大そう繁盛し、
日露戦争の戦勝祝賀会も催されたというが、昭和4年に廃業。
古くは「相の坂」とも呼ばれていたそうだ。
756
坂下方向
757
わが国最大のプロテスタント教派の教会で、
都内で一番広い2000坪の敷地を有するという。
758
堤方神社
めぐみ坂の坂上
759
呑川(池上本門寺近くの流れ)
以前は台風や大雨の時などは氾濫して、
周辺の住宅が床上、床下浸水になった。
760
妙見坂(坂上方向) 
池上本門寺、妙見堂前の石段。地図
妙見堂は照栄院の鎮守堂で、加藤清正の娘の瑤林(ようりん)院の納めた
室町時代の妙見菩薩像を祀っている。
761
坂下方向
762
朗師坂 
池上本門寺、朗師会館東側を北に上る石段。地図
朗師とは日蓮の門下六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)
の一人、日朗(1243~1320)のこと。
祖師入滅後、寺窪(照栄院付近)に草庵をつくり、
以後30年以上毎日この坂を上り、日蓮の廟所へ参拝したという。
763
此経難持(しきょうなんじ)坂 
池上本門寺、表参道の96段の石段。(男坂)地図
「法華経」宝塔品の偈文(げぶん)の文頭の文字をとって坂名にした。
石段は加藤清正が寄進したものと伝える。
右下に「おんな坂」の案内板が立っている。
764
坂下方向
正面下は総門
765
仁王門(三門)
766
おんな坂(坂上方向) 
比経難持坂(男坂)の途中から右方向に上る階段。
2002年に新設。地図(道の標示はない)
767
おんな坂の上り口
右に案内板
768
紅葉坂(坂下方向) 
池上本門寺、祖師堂裏を西に上る。地図
紅葉の木が多かったらしい。坂下北の松濤園は池上本門寺の奥庭で、
幕末に勝海舟と西郷隆盛が江戸城明け渡しの会見をした所
とされているが事実は定かでない。
769
五重塔
関東に4基現存する幕末以前の五重塔のうち、一番古い塔。
770
宝塔
日蓮入滅の折に荼毘に付した所。
771
大坊坂(坂上方向) 
池上本門寺、大坊本行寺前から東に上る石段。地図
772
坂下方向
773
大坊(本行寺)
もとは、この地の領主で日蓮の崇拝者の池上宗仲の屋敷だった。
774
車坂(坂下方向) 
池上本門寺の西側に沿い、曲がりながら北に上る。地図 
江戸時代からあった古い坂道で、荷車を通す坂の意。
本門寺境内の経蔵脇へ上る坂。
775
坂上方向
776
坂下から


















2005年10月20日

大森駅(JR京浜東北線)・・・大森貝墟碑(大田区山王)・・・大森貝塚遺跡公園(品川区大井6丁目)・・・山王日枝神社・・・八景坂・・・天祖神社・・・闇(くらやみ)坂・・・熊野神社・善慶寺・・・春日神社・・・臼田坂・・・右近坂・・・鐙(あぶみ)坂・・・おいはぎ坂・北向稲荷・・・万福寺男坂・女坂・・・蛇坂・・・馬込八幡神社・・・南坂・・・馬込坂・・・二本木坂・・・二本木橋(東海道新幹線・JR横須賀線)・・・湯殿神社・・・大田区立郷土博物館(休館日)・・・馬込駅(都営地下鉄) 

 大森貝塚は大田区だと思っていましたが、朝日新聞の記事によると品川説があり、90年代にほぼ確定的(品川)になったとありました。たいして離れていません、400m~500m程でしょうか。大森駅前の池上通りの八景坂は車が渋滞するなだらかな車道で、むろん今は海を見晴らすことなど望むべくもありません。天祖神社の正面の石段は狭く急です。今でも暗さの残るところがある闇坂の坂上から熊野神社まで起伏の多い、気分のいい道を行きました。臼田坂は馬込から荏原町、三軒茶屋を通り田無に通じて、田無街道と呼ばれ、坂周辺は萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住み「馬込文士村」という言葉の生まれたところで、当時は赤土の急坂だったそうです。

 おいはぎ坂の坂上付近は明るい住宅地ですが、坂の途中に万福寺の墓地があり、坂下の北向稲荷は木々に覆われ暗い感じです。おいはぎ坂から蛇坂に向かう途中に万福寺があります。境内の案内図に男坂、女坂が載っています。本堂へ正面から上る石段が男坂、鐘楼に上り本堂へ向かうのが女坂です。今は蛇坂に蛇など出そうもなく、蛇のように曲がった坂というのがふさわしい感じです。南坂を下ると第二京浜国道の馬込坂を挟んで、二本木坂の上りとなり東海道新幹線の二本木橋あたりまで上っています。この道は旧池上村の根方(仲池上1丁目付近)へ通じている古道です。

  参考:『大田区の坂道
699
大森貝墟碑(大田区山王)
701
大森貝塚公園(品川区大井6丁目)
702
山王日枝神社(山王1-6)
703
八景坂(坂上方向) 
JR大森駅西側を線路沿いに北東に上る池上通り。地図
かつては坂上からの眺めがよく、八景が選ばれたことによる。
昔は急坂で、雨が降るたび坂が掘れて
薬研の溝のようになったので薬研坂の別名がある。
坂上に安藤広重の浮世絵にも描かれた
源義家の鎧掛松も明治時代に枯れてしまった。
「ハケの坂」と呼ばれていたのを、「八景」に結びつけたのだろう。
八景坂・鎧掛松『江戸名所図会』
704
天祖神社正面石段(男坂)(大森駅前)
石段横に八景碑があり、「笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、
六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」と
八勝景が刻まれているというが見逃した。
笠島夜雨の「笠島」はどこなのか? 京浜急行大森海岸駅南の
第一京浜国道沿いの磐井神社の境内に東海七福神の笠島弁財天があり、
万葉集の「草陰の荒藺(あらい)の崎の笠島を見つつ君が山路越ゆらむ」
の歌にある笠島とは、ここの笠島弁財天を指したものという説もあるが、
この歌は「(海に浮かぶ)笠島を見ながら
(高台の)荒藺の崎を越えて行く頃だろう」というもので、
笠島弁財天のことではないだろう。
弁財天はもとは笠島にあったものがここに移ってきたともいう。
(万葉集に詠まれた時代より後) 
また、「荒藺の崎」は大森駅周辺の高台という説もあり、
笠島は荒藺の崎の東下の現在の東京湾に浮かぶ小島だったのでは。
磐井神社は東京湾の浜までが境内で、海中に鳥居があったという。
笠島はその東方向にあったのではないだろうか。
人工島の平和島を造る際に一緒に埋め立てられてしまったか? 
袖浦秋月の「袖浦」は東京湾の対岸の千葉の袖ヶ浦のことだろう。
705
天祖神社
706
闇(くらやみ)坂(坂下方向) 
山王2-12と3-31の間を曲がって北西に上る。地図
坂のそばに八景園(明治17年開園の遊園地)があり、
反対側に加納子爵邸があっての樹木が坂を覆い、
昼間でも暗かったためこの名がついた。
707
坂下方向
732
坂上方向
708
熊野神社
709
臼田坂(坂上方向)
710
臼田坂(坂下方向) 
南馬込3丁目と4丁目の間を北西に上る。地図
坂周辺に臼田姓が多いためにこの名がついた。
今でも臼田家は何軒もある。
馬込文士村に住んでいた萩原朔太郎の散文詩「坂」の冒頭部分:
「坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、
のすたるぢやの感じをあたへるものだ。
坂を見てゐると、その風景の向うに、
別の遥《はる》かな地平があるやうに思はれる。
特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。
坂が――風景としての坂が――何故にさうした
特殊な情趣をもつのだらうか。(以下省略)」
朔太郎は馬込の前は田端文士村に住んでいた。
東京散歩(谷戸川跡~隅田川)』に記載。
故郷の前橋には、「前橋望景の碑」が立っている。『前橋市の坂①』 
奥州街道の白河宿には朔太郎の妻の生家の造り酒屋がある。
奥州街道(白河宿→笠石宿)
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坂下方向
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右近坂(坂上方向) 
南馬込3-24と3-28の間を西北に上る。坂上は臼田坂上。地図》 
坂名の由来は、①臼田坂の右近くだから。
②右近、あるいはおこんという名の人が住んでいた。
③うこん色の着物を着た娘がよくこの坂を通った。などさまざま。
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坂上方向
昔は人通りの少ない寂しい坂で、雨が降るとどろんこの道になった。
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坂下方向
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鐙(あぶみ)坂(坂上方向) 
南馬込4-4と4-12の間を北に上る。地図
梶原景季の愛馬、磨墨の鐙が落ちていたという鐙谷の伝説に因る名。
鐙谷は臼田坂上バス停あたりから南西の低い地帯。
磨墨塚は南馬込3-19にある。
本郷の菊坂の近くにも鐙坂がある。
716
坂下方向
717
おいはぎ坂 
南馬込4-7と4-9の間を北東に上る。地図
墓地があり、木が繁り暗く寂しい場所でかつてはおいはぎが出たところ。
右側に北向稲荷。その上は万福寺の墓地。
坂下には内川が流れ(現在は暗渠)、善照寺の角に牛洗戸橋があったので
別名を牛洗戸坂。
この道は池上本門寺に向かう裏道に当たる重要な道だった。
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坂上方向
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北向稲荷神社(おいはぎ坂の坂下)
昔は、北向上台神社と呼ばれていた。
「出世稲荷」の扁額がかかっている。
江戸時代にはたいそう流行った神社だったそうだ。
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万福寺男坂  南馬込1-48万福寺正面の石段。地図
梶原氏とのつながりの深い寺院で、梶原景時が開基とも伝える。
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境内案内図に男坂、女坂がある。
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万福寺女坂
鐘楼へ上る石段。
723
蛇坂 
南馬込1-27と1-24の間を曲がりながら南西に上る。地図
この辺に蛇が多く住んでいたとも、
蛇のように曲がっているのでついた名ともいわれる
724
坂上近く
725
南坂 
南馬込5-6と5-7の間を東北に上る。 《地図
馬込の氏神の馬込八幡神社の南にあるためついた名。
昔は狭い急坂だった。
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馬込八幡神社
旧馬込村の鎮守社
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坂上方向
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馬込坂 
西馬込1丁目と南馬込5丁目の間を東北に上る第二京浜国道。地図
このあたりは、昔は小高い丘や水田で、
坂下には内川の清流が流れていた。
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二本木坂(坂上方向) 
西馬込1-16と1-10の間を北西に上る。地図
この辺は馬込村小字二本木と呼ばれていた。
730
坂下方向
731
湯殿神社(南馬込5-18)
馬込村の根古屋谷の鎮守



















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