2008年09月

2008年9月29日

二十三士温泉・・・国道55号(土佐浜街道)・・・二十三士の墓(福田寺)・・・八幡神社・・・安田川・・・八幡宮・・・(土佐くろしお鉄道)・神峯神社鳥居・・・坂本橋(東谷川)・・・真っ縦・・・27番神峯寺・・・神峯神社・・・唐浜化石(食わず貝)・・・安田明神?・・・国道55号・・・名村川橋(名村川)・・・大山岬・・・浜千鳥公園・・・道の駅大山・・・防波堤歩道・恵比寿神社・・・国道55号・・・伊尾木川橋・・・安芸川橋・・・楫橋(江の川)・・・妙山寺・・・江湖川橋(江の川)・・・安芸駅(土佐くろしお鉄道・ごめん・なはり線)

 今にも雨が落ちてきそうな中を、神峯寺(標高430m)へ上るまでは降りださないようにと願いつつ国道を行く。安田川を渡り、安田町の町並みを過ぎ、道標の立つ四辻から右へ入り、土佐くろしお鉄道の線路下に出る。ここに『よさこい節』のヒロイン?、坊さんにかんざしを買わせた娘のその後の「よさこい秘話」の案内板が立っていてこれがなかなか面白い。神峯寺は『よさこい節』の一節にも登場する。そばに神峯神社の鳥居が立ち、東谷川を渡ると上りとなる。はじめはゆるやかだが次第に急坂となり、大きく何回もカーブして上るようになる。

 団体さんがマイクロバスやタクシーで追い抜いて行く。その道を縫うように「真っ縦」と呼ばれる急坂の遍路道が直線的に駐車場近くまで上っている。運動靴のかかとを踏んで前を歩いていた若い外人遍路が靴をちゃんと履き直して真っ縦を上り始める。まだ雨が落ちて来ないのが有難い。真っ縦も思ったほど急でも長くもなかった。普通の山道というところか。駐車場に出るとちょうどバスを降りて来た連中と一緒になる。足早に先に出ると後ろから「お兄さん、ずいぶん足が早いのね。」とおばちゃんの声。嫌味だろうか、感心しているのか。めんどうなので振り返りもせず足を早める。本堂、大師堂を参拝している間にとうとう降ってきた。まあここまでもったのだから結構なことだ。上の神峯神社まで上って見る。神峯の寺と神社は神仏習合の形で信仰されてきた。ここまで来る団体さんはいないが、さっきのとは別の若い外人遍路が上って来ていた。どこでも通じるような軽い挨拶を交わす。

 この先、30分足らずで室戸岬、足摺岬が望めるという展望塔(標高570m)があるのだが、この天気では眺めは望めそうもなく元の道を引き返す。雨は本降りとなり滑るだろうから、真っ縦は降りずに車道を下る。カーブの大回りで距離はかかるが、やはり下りは楽でスピードは出る。雨の中を上ってくる何組かの歩き遍路とすれ違う。挨拶する時の顔が羨ましそうに見える。これからの上りはご苦労さんだ。下って虎縞模様の1輌の「阪神タイガース号」が走る土佐くろしお鉄道沿いを進み、唐浜駅の先で国道55号に出る。雨が強くなり車に雨水を跳ねかけられるので、ポンチョを被り傘をさしての行軍だ。建物のガラス戸に写るポンチョ姿は、まるでほおずきの化け物のようだが、山用だけあって軽くてムレず着心地はいい。格好なんかどうでもいいという気分だ。しかし、だんだん雨の中を一人で歩いているのが馬鹿らしく、みすぼらしく思えてくる。大山岬、浜千鳥公園を過ぎて、道の駅大山で小休止する。ちょうど、夫婦連れの歩き遍路が出発するところだった。お互いこの雨の中、同類項に会えてほっとした気持ち。ちょっとの会話で元気づけられる。ここで二十三士温泉でお接待でいただいた握り飯をほうばる。

 国道から離れ防波堤歩道に入る。雨の中、国道歩きよりは全然歩きやすい。伊尾木駅の先で国道に戻り、伊尾木川、安芸川を越え国道を離れ安芸市街地から安芸駅へ出た。今回の四国遍路道の坂道散歩はここが打ち止め。ほぼ予定通りというところだ。宿に早めに着く余裕を持った日程にしているのが正解なようだ。安芸駅から若い女性の車掌さんが乗っている一輌編成の土佐くろしお鉄道で高知駅へ向った。

  【ルート地図】(226→235)  

Img_2749二十三士の墓(福田寺) 【ルート地図】の226

清岡道之助を首謀とする土佐勤王の23名は元治元年(1864)9月5日、奈半利川のほとりで斬首された。

Img_2748説明板

Img_2752八幡神社(田野駅先の国道55号沿い)

手前に大師堂があるはずだが見当たらず。

Img_2756安田川河口

正面は国道55号の安田川大橋、その向うは太平洋。安田川にはダムがなく、アユ、アメゴなどの川魚の宝庫とか。

Img_2759道標などが立つ辻

27番へは山の方へ進む。

Img_2761土佐くろしお鉄道の線路をくぐる。

Img_2762『よさこい節』の由来の娘(お馬さん)の「よさこい秘話」の説明板(その①)

31番竹林寺の坊さんがかんざしを買った相手の鋳掛屋(いかけや)の娘のお馬さんは、追放され神峯寺の登り口の旅籠「坂本屋」で奉公していた。『よさこい節』の8番には「神の峯」も登場する。

Img_2763その②

Img_2764その③

お馬さんはここから須崎池ノ内に預けられ、所帯を持ちニ男二女をもうけ、その後、東京の小石川に引越し余生を送り、北区豊島で病没した。北区の西福寺(豊島2-14)《地図》に墓がある。『六阿弥陀道』で訪れた。

31番竹林寺の近くにお馬の家跡、37番岩本寺への遍路道から近い須崎市池ノ内には「お馬神社」もある。次回に寄ってみたい。

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Img_3595お馬神社(お馬堂)

神社というより小さなお堂だ。縁結びにご利益があるという。

(10月23日撮影)

Img_3596説明板

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Img_2765神峯神社の一の鳥居?

随分と離れてはいるが。

Img_2768_2神峯寺への上りとなる。お馬さんが働いていた旅籠「坂本屋」があったのはこのあたりか。「坂本橋」があったがこの橋だったか、もっと手前だったか。

Img_2775太平洋が広がる。

Img_2777外人遍路が上って行く。

Img_2779真っ縦の上り。 【ルート地図】の228

Img_2783何度も車道を横切り、直線的に上って行く。

Img_2786ここまで団体さんはマイクロバスで上って来る。ハイヤーはもっと先の門前まで行く。

Img_278827番神峯寺仁王門

【ル-ト地図】の229

Img_2799うすさま明王

すべての不浄を払う神。トイレに入口に祀られている。

Img_2792本堂

Img_2795大師堂

Img_2801神峯神社への石段

Img_2813神峯神社本殿 

明治初年の神仏分離まではここが27番札所で、観音堂と呼ばれ本尊の十一面観音像を納めていた。

Img_2806説明板

Img_2810砲弾か?

Img_2812燈明巌だろうか?

どうも違うようだ。もっと高い所にあるのか?

Img_2809説明板

Img_2822土佐くろしお鉄道(ごめん・なはり線)

黄色に黒の縦線の虎柄の「阪神タイガース号」(唐浜駅付近。向こう側が太平洋)

安芸市営球場(球場前駅そば)を毎年、キャンプ地とする、阪神タイガースを応援するために運行されている。

Img_2825唐浜化石出土地

「食わず貝」の大師伝説は「食わず芋」、「食わず梨」と同じ話だ。ここは「番外霊場」にはなっていない。あまり知られていないようだ。

Img_2824説明板

Img_2826安田明神?

遍路道が国道55号に出る安田明神バス停の所。

Img_2831浜千鳥公園 【ルート地図】の232

Img_2832♪「浜千鳥」♪歌碑

Img_2834防波堤歩道

道の駅大山の先から伊尾木駅の間。右に土佐くろしお鉄道。

Img_2837恵比寿神社(防波堤道の終点)

Img_2835道案内板

Img_2838安芸川大橋から

前方の山は雨で煙っている。

Img_2839妙山寺 【ルート地図】の234

源道上人により開かれ、もとは土居村(安芸市土居)にあったのを戦国時代にここに移す。木造聖観音像は鎌倉時代の作で国の重文。

Img_2841江湖川橋から江の川

Img_2843安芸駅(土佐くろしお鉄道)

2008年9月28日

Img_2620太田旅館・・・室津川・・・奈良師かめたろうバス停・・・平等津(ならし)橋(奈良師川)・・・岩戸神社・・・元橋(元川)・・・川村与惣太墓・・・厄坂・・・26番金剛頂寺・・・法満宮・法満坂・・・国道55号・不動堂・不動岩(番外霊場)・・・喫茶法満坂・・・道の駅キラメキメッセ岩戸・・・東ノ川・・・吉良町(重要伝統的建造物群保存地区)・シチヤ段・・・御田八幡宮・・・西ノ川・・・国道55号・・・羽根川橋・・・市営住宅・・・中山峠越え遍路道・・・加領郷漁港・・・大師堂・御霊跡(番外霊場)・・・十一面観世音堂・・・ミニ遍路駅奈半利・・・三光院・・・八幡宮・・・長谷川・・・奈半利の町並み・・・高札場(野根山街道起点)・・・土佐日記那波泊碑・奈半利川橋・・・田野町・二十三士公園・二十三士温泉

 室津川、奈良師川、元川を渡り26番金剛頂寺への遍路道に入る。元橋の手前に女人結界標があるというが見逃した。山道に入ってしばらく上ると参道の厄坂下に出る。境内で見かけた顔に出会い挨拶を交わす。この先、少し遠回りになるが「行の道」だった行当岬の番外霊場の不動岩へ下り、27番神峰寺へ向うことにする。途中までは27番への遍路道を行くと分岐点らしい辻へ出た。右へ27番の道標が掛かっているが、左へ行けば法満宮を通り不動岩へ下るのかはっきりしない。ちょうど木からスダチのような実を棒で落としている人がいた。食用ではなく油を絞るという。堅い実で鳥もつつかないらしい。不動岩へは左へ行けばいいのか聞く。不動岩は知らないが、お宮の前を通って国道55号へ下りられるという。お宮は法満宮のことなのか、これもはっきりしないが国道へ下れればまあ良しとして、この道を行くことにする。しばらく行くと二又の所に小さな古い道標があり指が右を指しているので入ると小さなお宮だ。扁額の薄れた文字は法満宮のようだ。ここから先が難路だった。薄暗く何度も急角度で折れ曲り、砕けた石と倒木と蜘蛛の巣だらけ。それでも波の音が聞こえ出し、前方がポッカリ明るくなってきた。やっと国道に出られた。不動岩近くならしめたものと思っていたら、国道を挟んでお堂が建っている。不動堂で隣りが不動岩だった。

 不動岩からは国道を進み右に遍路道に入る。東ノ川を渡ると吉良川町の古い町並みの中に入る。西ノ川との間の、海岸沿いの下町と山側の上町の家々はなかなかのもので見ごたえがある。(上の写真は御田八幡宮前から海の方へ下る坂。) 吉良川町をぐるっと回り、国道に出て羽根川を越え遍路道に入り、中山峠越えの道を目指す。市営住宅の前で地図で道筋を確認していると。住宅からおばさんが飛び出してきて道筋を詳しく何度も身振り手振りを加えて説明してくれた。ここを通るお遍路にはいつもこうしているのだろう。有難いことだ。峠越えの道は思ったより高く上り、長かった。下りかけた所の民家のおばさんと少し一緒の歩きとなる。ここは昔からの遍路道で菅さん(菅直人)が、最近ではNHKの番組(『街道てくてく旅』)で○○さんが通ったとのこと。菅さんはともかく、NHKの番組ではスタッフ、カメラマンを従えた護送船団の大名行列だったのだろう。

 国道で出ると加領郷漁港で、右へ「琵琶ケ瀧」の標識が掛かっていた。行きかけて神社前で聞いてみるとそんなに遠くはないが道は荒れているとのことで止めにする。波が結構高い海岸の大師堂、御霊跡に寄り奈半利町に入る。ここも古い町並み残っている所だ。町中を歩き、高札場から奈半利川そばの「土佐日記那波泊碑」から奈半利川橋を渡り、二十三士温泉に向った。明日は雨のようだ。27番神峯寺は標高430mある。大した降りでなければよいが。

  【ルート地図】(215→225)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2521奈良師バス停「かめたろう」

平等津(ならし)橋の手前のユニークなバス停。金剛頂寺を建立の時、南都の番匠(大工)を招いたので、「奈良師」の名がつけられたとも。

Img_2525岩戸神社

Img_252826番金剛頂寺へ

Img_2531川村与惣太墓(左側の墓のようだ)

『土佐一覧記』の筆者。

Img_2530説明板

Img_253326番への上り

Img_2535途中から

Img_2536厄坂

Img_253826番金剛頂寺

【ル-ト地図】の217

女人禁制の寺だった。24番最御崎寺の東寺に対し西寺と呼ばれる。

Img_2539説明板

Img_2540本堂

Img_2541一粒万倍の釜

大師が一粒の米を入れて炊くと万倍に増えたとか。

Img_2543捕鯨八千頭鯨霊供養塔

Img_254627番神峯寺、不動岩への遍路道

Img_2549細い道を行く。

Img_2550丁石地蔵

Img_2551不動岩(左)・27番神峯寺(右)の分岐だが左への標識はない。

Img_2553右へ法満宮から法満坂を下って不動岩へ。中央に小さな道標。

Img_2554道標

右を指している。右に入るとすぐに法満宮がある。

Img_2556法満宮

Img_2560法満坂(坂下方向) 【ルート地図】の218

倒木、蜘蛛の巣、割れた石の道で難儀する。

Img_2561坂下方向

正面の明るい所は国道55号

Img_2562坂下

向い側が不動堂と不動岩

Img_2564不動堂

金剛頂寺が明治初年まで女人禁制だったので、ここが女人堂として賑わった。

Img_2575不動岩(番外霊場) 【ルート地図】の219

波切不動を祀り、漁師の守護尊として信仰を集める。行当岬にあり、大師が行に当たられた窟がある。行当西寺とも呼ばれる。神聖な岩や木、建物の周りを休まずにぐるぐる回る修験の修行のひとつが「行道」で、26番西寺と不動岩の間は行の道であったことから、以前は行当岬は行道崎と呼ばれていた。木に覆われ、岩のてっぺんが出ている。

Img_2573説明板

Img_2566不動岩から

Img_2569不動岩の窟

海側にある。

Img_2570ここにも祠

Img_2571祠内

Img_2579喫茶法満坂 《地図

Img_2592吉良川町の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)

海岸に近い下町(浜地区)と山側の上町(丘地区)にそれぞれ特徴ある家並みが続く。それほどの標高差はない。

Img_2595池田家「蔵空間茶館」

下町は切妻造りの町家が並び、強い風雨から壁面を守る土佐漆喰と水切り瓦の建築物が並ぶ。

Img_2600シチヤ段 【ルート地図】の221

シチヤ段の「つるべ下がり」(吉良川の昔ばなし) 「とっとの昔、吉良川の里シチヤ段は竹薮に囲まれ、大きな松の木が一本生えていました。この松の木に「つるべ下がり」という妖怪が潜んでいました。妖怪は松の木の高い枝から「子とろか、子とろか」「これにのれぇ これにのれぇ」と恐ろしい声でスルスルとつるべを降ろして通行人を脅かしていました。近所の子供達は「泣いたらつるべ下がりにとられる」とよく聞き分けて「利口もん」にしていたそうです。」 (室戸市教育委員会の吉良川町のパンフレットより)

Img_2601坂上方向

「シチヤ」は「質屋」か? 聞くのを忘れた。坂上に農具、包丁を造る「鍛冶屋」があったというが。

Img_2603坂下方向

Img_2607「いしぐろ」塀の家並み

上町は農家形の地割りが残り、家の回りにいしぐろと呼ばれる石垣塀を巡らせ台風の強風から守っている。

Img_2609御田八幡宮 《地図》

御田祭は重要無形民俗文化財

Img_2610説明板

Img_2613細木家住宅

明治24年建築で、当初は呉服業だった。

Img_2615武井家住宅

明治44年建築、米穀商と遠洋漁業。

Img_2616下町の商家

Img_2623熊懐家住宅

大正11、12年の建築で、昭和40年頃まで郵便局だった。

Img_2627上町の井戸

下町には屋敷内に井戸があり、水を得にくい上町では共同使用、管理の井戸が多かった。

Img_2647中山峠越えの遍路道

Img_2651石畳が残る。

Img_2656峠近くあたりから

Img_2662峠の最高点あたり

標高は110m位らしいがけっこう上った気がする。

Img_2665下って国道へ

Img_2666国道の手前

人とカメラに慣れているのか逃げもせず、じっとこちらを見つめて(睨んで)いる。ぺルシャ猫か?

Img_2672大師堂・大師霊跡碑(右奥) 《地図

大師修行の地。南方50mの海岸に霊石大岩があり、上部の窪みの中の霊水がゆっくり右旋回しているといい、大師が法衣を洗い清めた跡と云い伝う。左の岩のうちの一つだろうか?

Img_2677堂内

Img_2692十一面観世音菩薩堂

Img_2693国道を横切って十一面観音を拝みに行ったが対面できず。

Img_2698ミニ遍路駅奈半利

何だか雑然としている感じ。

Img_2702三光院

Img_2704八幡宮

Img_2710奈半利町の町並み

「オットピン」なんて薬の幟が立っている薬屋さん。薬で立たせるのは・・・・。興味のある方は自分で調べるように。

Img_2713竹崎家住宅

Img_2714説明板

Img_2716浜田家

Img_2717説明板

Img_2722野村家

Img_2721説明板

Img_2718斉藤家

Img_2719説明板

Img_2726二重(ふたえ)柿

内皮と外皮の二重。

Img_2727説明板

Img_2730藤村製絲(株)の繭蔵 《地図

Img_2729説明板

Img_2736高札場

ここから東洋町野根に「野根山街道」が通じている。

Img_2737説明板

Img_2738旧家の廃屋か。

Img_2741土佐日記那波泊碑(奈半利川橋の手前の警察署の前) 【ルート地図】の225

紀貫之は都への帰途、奈半利で二泊し、室津港へ向う。

Img_2743奈半利橋から二十三士公園(正面川岸)・二十三士温泉(正面・2013年9月20日で閉店) 《地図

2008年9月27日

ロッジおざき・・・国道55号・・・尾崎橋・・・夫婦岩・鹿岡(かぶか)鼻・鹿岡坂跡・・・旧道・・・捕鯨山見跡・・・丸山海岸・・・海洋深層水研究所・・・北明神・・・旧道・・・杉尾神社・・・三高小学校・・・国道55号・・・杉尾神社・・・青年大師像(番外霊場)・・・乱礁遊歩道(ビシャゴ岩・大師行水の池)・・・御蔵洞(みくろど)(番外霊場)・天狗岩・・・水掛地蔵・・・観音窟(番外霊場・24番最御崎寺奥の院)・・・捻(ねじ)り岩・・・24番最御崎(ほつみさき)寺・・・室戸岬灯台・・・室戸スカイライン(県道203号)・・・昭和9年海嘯(かいしょう)襲来地点碑・・・王子宮・兼山神社・・・室戸岬港(津呂港)・紀貫之泊舟所碑・野中兼山開鑿之室戸港碑・・・室津港・梅香(まいご)の井戸(紀貫之舟泊の地)・・・願船寺・25番津照寺(しんしょうじ)・・・太田旅館

 今日はやっと室戸岬を回り、24番最御崎寺から西海岸へ出る。青年大師像あたりから観光ホテルなどが見え始め少し観光地の雰囲気になる。乱礁遊歩道に入り岩の上で太平洋を眺めながら、ロッジおざきでお接待でいただいた昼飯だ。しばらく休憩して大師修行の地、「空海誕生」の御蔵洞に入る。今は国道が間に入って海とは隔たりがある。岬の先端の方へ行き、観音窟から最御崎寺へ亜熱帯の植物の間の上りとなる。途中、前を行く女性との間を蛇が横切った。カーブで一休みする女性に「今、蛇が出たよ。」というと、「え、本当ですか。」とびっくりした表情。知らぬが何とかだろう。

 標高165mほどの24番最御崎寺にはさほど苦もなく着いた。思えば23番薬王寺から5日がかりの道中だった。境内から少し下って室戸岬灯台へ寄り、室戸スカイライン(県道203号)のヘアピンカーブを下る。車は少なく、下に広がる海辺の景色を眺めながら下るのはいい気分だ。下って所々に「昭和9年海嘯(かいしょう)襲来地点」碑が立つ町中を進む。海嘯とは津波のことで、昭和9年の室戸台風の時の津波襲来のことだろう。王子宮を過ぎると室戸岬港(津呂港)で、その先、2kmほどで室津港がある。どちらも『土佐日記』の紀貫之が停泊した港としている。10日間も泊まったのはどっちなのか? 

 室津港上の25番津照寺の本尊の延命地蔵は、土佐藩主山内一豊が室津沖で暴風雨に巻き込まれた時に舵(楫・かじ)を取って救ったという。(『今昔物語集』に載る話を改変したらしい。) それ以来、「楫取地蔵」の名で呼ばれている。大師堂は石段の下にあり、石段を上ると竜宮門のような鐘つき堂の上にこれもユニークな造りの本堂が建っている。境内には室津港づくりに貢献した一木権兵衛さんを祀る一木神社もあり札所の中でもちょっと変わった風情だ。今日の宿、門前に近い太田旅館に向う。間口は狭いが奥行きがある昔ながらの旅館だ。

  【ルート地図】(204→214) 

Img_2363日の出

「ロッジおざき」の部屋から。

Img_2369鹿岡(かぶか)鼻の鹿岡坂跡 【ルート地図】の204

左の小岩が夫婦岩。右の大岩は国道を通した時に削り崩した岩盤の残骸とか。本来、国道と大岩は一体で、その上の鹿岡坂を通り室戸へ向ったそうだ。

Img_2372夫婦岩

神火ではなく横切っているのは飛行機雲か。

Img_2371夫婦岩碑

「南路志に云う 往古より大晦日の晩 夫婦岩の間鵜の碆に「竜燈」がともると この神火を地元では「かしょうさま」と云い 立岩の峯々を越えて大滝の上に舞上がり四方山麓の家々請じ入れられて大年を迎える浄火となったと云う」 「碆」(は)とは、海水、樹木によって見え隠れする岩のこと。

なんとも神々しい情景が目に浮かぶようだ。

Img_2374

綿あめのような雲。

Img_2380捕鯨山見跡 

来遊する鯨を発見するため山見小屋が置かれ、山見番が詰めていた。標高約50mで、明治末期まで使われてきた。

Img_2379説明板

Img_2387海洋深層水研究所 《地図

日本では最初の研究所。

Img_2388説明板

Img_2389北明神(深層水研究所の前)

Img_2391杉尾神社

Img_2397ここも杉尾神社

Img_2402青年大師像(番外霊場)

ちょっと不気味だ。

Img_2406室戸岬の乱礁遊歩道

Img_2411大師行水池

山頭火の日記(昭和14年11月6日)から、「室戸岬の突端に立ったのは三時頃であったろう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果しなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽かない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる、……ここにも大師の行水池、苦行窟などがある・・・」 「かくれたりあらはれたり岩と波と岩とのあそび」

苦行窟は御蔵洞のこと。このあと山頭火は最御崎寺で小犬に噛まれている。

Img_2412説明板

Img_2415ビシャゴ岩

Img_2424御蔵洞(みくろど)(番外霊場) 【ルート地図】の209

大師修行の地で、『三教指帰』(さんごうしいき)に、「土州室戸の崎に勤念(ごんねん)す。谷、響きを惜しまず、明星、来影す」

Img_2421御蔵洞内から太平洋(今は国道55号を挟んでいるが。)

修行中の大師の口の中に明星が飛び込み悟りを得たという。「空海」の誕生である。

Img_2426天狗岩

Img_2429水掛地蔵

Img_2427説明板

Img_2433観音窟(番外霊場・最御崎寺奥の院) (最御崎寺への登り口)

【ル-ト地図】の210

「大師一夜建立の岩屋」(空海の七不思議の一つ)の伝説がある。大師が唐から請来したという、如意輪観世音像は現在は最御崎寺に展示されているという。洞内には七観音が鎮座する。

Img_2436洞窟奥

Img_2437観音さんの浮き彫り石像。新しいもののようだ。

Img_243824番最御崎寺へ上り

Img_2440捻(ねじ)り岩(空海の七不思議の一つ)

大師の母が修行中の大師を訪れた時、大師が念仏を唱え、岩をねじ伏せ嵐を鎮めたという。明治初年まで女人禁制の寺だったので、このような伝説が生まれたのだろう。

Img_2439由来

Img_244124番最御崎寺 【ルート地図】の211

Img_2446鐘楼堂

Img_2445説明板

Img_2447本堂

Img_2449鐘石(空海の七不思議の一つ)

大師堂のすぐそばにある。団体さんが経を上げているので、小さく叩いてみた。

「空海の七不思議」とは、①一夜建立の岩屋、②捻り岩、 ③鐘石、 ④喰わず芋、⑤目洗いの池、 ⑥灌頂ケ浜  ⑦行水の池  だろうか?

Img_2448説明板

Img_2450大師堂

Img_2453岩見重太郎の塚

「狒々(ひひ)退治」で有名な岩見重太郎の墓?がここにあろうとは。墓ではなく供養塔みたいなものか?

Img_2452説明板

薄田隼人(兼相)は岩見重太郎と同一視される人物。墓は大阪市天王寺区と大坂府羽曳野市にあるそうだ。『薄田隼人の墓

Img_2456室戸岬灯台

四国南東端の灯台、向うは太平洋。

Img_2458説明板

Img_2473ヘアピンカーブを下って室戸岬の西海岸へ。

Img_2479昭和9年海嘯(かいしょう)襲来地点碑

海嘯(かいしょう)は、津波のこと。

Img_2482王子宮(室戸岬郵便局前) 《地図

鯨の神社として漁業関係者の信仰が厚い。

Img_2485兼山神社(王子宮内)

野中兼山は、室戸岬港(津呂港)、室津港、手結港の港の建設に携わった土佐藩の家老。

Img_2484説明板

Img_2486_2室戸岬港(津呂港) 

紀貫之泊舟所の碑(右)・野中兼山開鑿之室戸港碑(左) 《地図》(ここだと思うが)

Img_2488説明板

Img_2496室津港と梅香(まいご)の井戸跡(手前の石囲い) 《地図

ここも紀貫之の泊舟の地としている。(梅香の井戸の説明板) 室戸岬港(津呂港)とは2km少し位の距離だ。紀貫之が承平5年(935)1月12日から10日間も滞在したのはどっちの港だったのか?

土佐日記』(青空文庫より) 土佐日記がこんなに短いとは知らなかった。

Img_2495説明板

Img_2500願船寺(25番津照寺の門前)

Img_2499説明板

Img_250425番津照寺(津寺) 【ルート地図】の213

石段上は竜宮門のような鐘つき堂。

Img_2513大師堂

石段の下にある。

Img_2503説明板

Img_2512鐘つき堂

舟の楫の紋がついている。

Img_2509本堂

本尊の延命地蔵は土佐藩主山内一豊を楫を取って暴風雨の海から救ったといい、「楫取地蔵」と呼ばれている。『今昔物語集』巻17の6の津寺の「地蔵菩薩の霊験譚」がもとになっているようだ。

Img_2507一木神社(津照寺内)

野中兼山と室津港の改修に努め、難工事のため切腹して人柱となった一木権兵衛を祀っている。

Img_2505権兵衛が難儀したという港の入口を塞いでいたお釜岩か?

2008年9月26日

Img_2308民宿谷口・・・国道55号(土佐東街道・土佐浜街道)・・・相馬坂・相馬トンネル(288m)・・・相馬川・・・八幡宮・・・東洋大師明徳寺(番外霊場)・・・六部堂・・・港久保橋(野根川)・・・地蔵堂・・・伏越ノ鼻・・・ゴロゴロ浜・・・淀ケ磯・・・法海上人堂・・・ナゲ谷橋・・・水尻谷橋・・・仏海庵(番外霊場)・・・薬師堂・・・佐喜浜中学校・佐喜浜八幡宮・・・浜宮神社・・・佐喜浜橋(佐喜浜川)・・・佐喜浜港・源内槍掛けの松碑・・・磯辺神社・・・ロッジおざき

 朝から雨で時々強く降る。昼前には上がるというので出発を遅らし8時過ぎに宿を出る。昨日の三人組が前を行く。今日はロッジおざきまでの22km位の道のりだ。海岸沿いの道で迷うこともなく、降られて濡れることを覚悟でゆっくり進む。右足の親指が靴にあたるのか、圧迫されて爪下が内出血して痛みのピークだ。爪下血腫というやつだ。靴の中敷をはずして歩くがやっぱり痛い。相馬トンネルを抜け、遍路道に入り東洋大師から野根まんじゅうの店が並ぶ野根の町中を行く。野根から奈半利町までは山沿いの野根山街道が通じている。35km位で昔の街道の風情が残っているようだ。一度歩いて見たいが。

 野根川を渡り、地蔵堂から国道55号へ出る。伏越の鼻、ゴロゴロ浜、淀ケ磯と海岸沿いを進む。(上の写真は淀ケ磯近くから室戸岬方向) 雨もほとんど上がってきたようだ。国道から離れ仏海庵への遍路道に入る。田畑の中の道でアスファルトと車と海ばかり見てきたのでほっとする。仏海庵は屋根のトタンの一部はがれているのか時々風で音をたてているだけで静かだ。しばし堂内で横になって小休止する。

 一旦国道に出て、遍路道に入り佐喜浜八幡宮を過ぎ、佐喜浜の町中に入る。ここまで店もなく、まだ昼飯を食べていなかった。近くの喫茶店に寄ってみたが、店は空っけぱなしで店の人も客もいない。しばらくスポーツ新聞を見て待ったが戻ってくる気配もない。呑気なものだ。仕方なく先のコンビニにまで行って店前のベンチで遅い昼飯にした。佐喜浜港の「源内槍掛けの松」の古ぼけた石柱を過ぎ、国道沿いの旧道に入り、再び国道に出ると遠くに夫婦岩が見え出した。今晩の宿、海岸沿いのロッジおざきはすぐ先だ。この宿はいい。くだくだとは書かないが。

 【ルート地図】(194→203)

Img_2274_2相馬坂 【ルート地図】の195

相馬トンネルへ上って下る坂。

Img_2276相馬トンネルを抜け下って上っていく。

Img_2281東洋大師へ右へ入る遍路道。

Img_2282八幡宮?

Img_2284東洋大師明徳寺(番外霊場) 【ルート地図】の197

大師がこの地の涸れ谷に錫杖(しゃくじょう)を突き立てて祈願したところ、清水が流れ出し滝になった。以降全長2mに満たないこの谷は涸れることがなくなったという。寛永18年(1641)には、番外札所、遍路宿泊所の記録があり、真念の著した「指南書」と「功徳記」にも大師堂、宿の記録がある。元は野根大師といったが、野根と甲浦が合併し東洋町になってからはこう呼ぶようになった。
境内の弘法の滝を見逃した。

Img_2285通夜堂

野宿遍路が泊まれるようになっている。

Img_2286シャワーも使わしてもらえるようだ。

Img_2287六部堂

東洋大師の前

Img_2289野根の町中

野根まんじゅうの店が数軒ある。

Img_2294

野根川(港久保橋から) 《地図

野根から野根山連山の尾根づたいに奈半利町まで、約35kmの「野根山街道」が通じている。古くは『土佐日記』の著者紀貫之の入国の道として、また、藩政時代には参勤交代の通行路として使用された。現在は「四国のみち」環境省ルートとして整備されている。標高1082m装束峠を越す道だが室戸岬を回る海沿いの道よりかはるかに短い。

Img_2296地蔵堂 

野根川の港久保橋を渡って進んだところ。

Img_2303伏越の鼻あたりから

Img_2306ゴロゴロ浜 【ルート地図】の199

「ごろごろ浜のごろごろ石 まるいまるい 波に磨かれ磨かれた石だ」 山頭火の日記(昭和14年11月5日)

Img_2304ゴロゴロ浜の由来

Img_2316法海上人堂 《地図

廻国行者で即身成仏した法海上人を祀った堂。

Img_2317堂内

Img_2327

国道から離れ仏海庵へ

Img_2330仏海庵(番外霊場) 【ルート地図】の200

仏海は諸国行脚、霊場巡礼を続け、宝暦10年(1760)仏海庵を建立し、難渋する遍路の援護にもあたり、明和6年(1769)にここで即身成仏した。

Img_2329説明板

Img_2331筐印塔

仏海上人の墓。

Img_2332堂内

遍路が泊まれるようだ。

Img_2333薬師堂

お堂はこの先、割れて急な石段上のようだ。

Img_2340佐喜浜八幡宮 《地図

佐喜浜中学校の隣り

Img_2339説明板

Img_2343浜宮神社

Img_2351源内槍掛けの松碑(佐喜浜港) 

説明板に「長宗我部元親の阿波侵攻をはばむため戦った佐喜浜合戦・・・」とある。『土佐の嵐』によると、「元親は永禄12年に安芸氏を滅ぼしたが、安芸領東部は服属していなかった。天正2年に、室戸から野根にかけての武士らが同盟を結んで抵抗する姿勢を示したので、元親は軍を派遣して羽根(室戸市西部)付近で同盟軍を破り、室津、吉良川など室戸岬周辺の豪族を降伏させた。しかし、佐喜浜は降伏しなかったので、翌年、阿波侵攻作戦と併せてここを攻撃したと考えられる。」とある。佐喜浜城主はもともと反元親勢力であって、別に阿波に味方して阿波侵攻をはばむために戦ったわけではないのでは。

Img_2350説明板

Img_2354右に入る遍路道

Img_2356磯辺神社

Img_2360夫婦岩方向(ロッジおざき前から)

正面の小さな岩。右の2つは国道工事の際に切り崩した岩の残骸とか。左の重なって見える2つの岩が夫婦岩。

2008年9月25日

Img_2146民宿海山荘・・・萩坂・・・大砂海水浴場(大綱・苧綱・帯綱浜)・・・粟浦の坂・・・粟ノ浦(浜)・・・伊勢田川橋・・・県道196号・・・天神社・・・借戸(かろうと)坂跡・三浦浜跡あたり・弥勒菩薩石像・・・地蔵堂・観音庵・中世代の底痕群・・・浅川漁港・クヌッセン機関長の碑・・・浅川橋(浦上川)・・・スベリ坂・・・大里古墳・・・県道299号・・・海部川橋(海部川)・・・県道197号・・・楠神社・・・(海部駅)・・・国道55号・・・延命地蔵堂・・・那佐湾・乳ノ崎狼煙台跡・島弥九郎事件跡・・・県道309号・・・願行寺・・・宍喰橋(宍喰川)・・・古目大師(番外霊場)・・・(国道55号)・・・宍喰浦の化石漣痕・みとこ湾・・・金目番所跡・・・東洋町(高知県)・・・甲浦漁港・・・熊野神社・・・小池橋(小池川)・・・五社神社・・・小池川橋・・・河内川橋・・・国道55号・・・白浜海水浴場・・・甲浦(かんのうら)坂・甲浦坂トンネル(150m)・・・民宿谷口

 八坂八浜を過ぎ、海陽町から宍喰町を通り、高知県に入り東洋町までの坂道散歩です。八坂八浜最後の三浦浜は埋立てられ、借戸坂も名残跡ほどになってしまっているが、弥勒菩薩石像の由来碑、寛永の津波供養地蔵碑にその名は刻まれている。遍路道の道案内標示どうりに行ったら国道55号に出てしまった。国道よりも浅川橋からスベリ坂を通る道の方を歩きたいので戻る。浅川橋の手前で漁港で働く女性?に呼び止められ缶コーヒーのお接待を受ける。親切にもこっちの道は遠回りではとアドバイスされる。国道よりこの道の方がいいのでと言うと大きくうなづいてくれた。浅川橋を渡るとスベリ坂の上りとなる。今は広く新しい車道で、全然「すべり」はしない。車も少なくて気分がいい。新しい坂にも出会えたし、やっぱりこの道を選んで正解だ。近くに「まぜの岡」があり、スベリ坂を下ると老人施設のデイサービス「まぜの里」がある。「まぜ」は何かの植物かとも思っていた。「まぜの里」の庭で作業中の女性職員に聞いてみると、まぜとは「南風」という答え。南風は「はえ」とばかり思っていたが、後で調べると四国、瀬戸内海地方では「まぜ」というそうで勉強になった。「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」ということか。

 海部川橋を渡り海部の町中を過ぎ、海部駅の手前で国道55号に入る。緩やかに上って行くと左側に河口のような穏やかな那佐湾が広がってくる。(上の写真左が那佐湾、右が国道55号) 対岸の乳ノ崎上には幕末に狼煙台が築かれていた。宍喰川を渡ると古目大師で、ここは土佐藩との境で、古目番所が置かれていた。国道55号をくぐって水床(みとこ)トンネルを迂回し、みとこ湾沿いを進む。化石漣痕、湾の景色を見ながら上って下るとここにも藩境の金目番所跡があった。

 水床トンネルの反対側の国道55号に出て高知県に入った。すぐに甲浦の町へ下る道に入る。甲浦港を眺めていると自転車に乗ったおじさんが話かけてきた。つい先だってくらげの大群がここまで押し寄せてきたという。下を見るとプカプカとけっこうな数のくらげが浮いていた。昔の遍路道、今の歩き遍路ことなどを聞きながらしばし小休止。歩き出してすぐ、熊野神社の下で女の人が、「お遍路さん、気をつけて行ってらっしゃ-い。」と大きな声で。疲れが増してきた時だけにすごく元気づけられる。

 海岸沿いの国道55号に出て、白浜海水浴場を過ぎ甲浦坂を上り、甲浦坂トンネルの手前から右に迂回路に入る。少し上ってトンネルを越え反対側に下れると思っていたがなかなか下りにならない。途中右にさらに高く上って行く道もあったが。結局、行き止まりになってしまった。後で民宿谷口のお婆さんに聞いたところ、歩いて来た道は果樹園への道で、途中で右に上る道を行けば国道へ下りて来られるという。しかし大回りの相当な距離で、ずっと民宿も通り越してしまう。地図にもトンネルの手前から迂回し、反対側に出られる大した距離でもない道筋が載ってているのだが。往復30分以上余計な道草をしてしまったが、天気も景色も良く、時間も早く、宿も近かったのが幸いというべきだろう。民宿谷口屋はお婆さん一人で切り盛りしているようだった。客は私と中年?(60代)の三人組の2組だけ。お婆さんはお孫さん(孫娘?)のサーフィンの選手が自慢のようで、三人組のおじさん連中に話を聞かせていた。

  【ルート地図】  

Img_2052萩坂(八坂の一つ) 【ルート地図】の177

鯖瀬トンネルの手前から左へ大砂海水浴場へ下る坂。右は国道55号の鯖瀬トンネル(98m)。八浜の一つ大綱(苧綱・帯綱)浜が大砂になったのだろう。

Img_2055坂下方向

Img_2063大砂海水浴場(坂下)

八浜の一つ大綱(苧綱・帯綱)浜

Img_2067粟浦の坂(八坂の一つ) 【ルート地図】の178

八浜の一つ粟の浦(浜)へ下る国道55号

Img_2069坂上方向(坂下の粟ノ浦バス停から)

左に小堂

Img_2070粟ノ浦

八浜の一つ粟の浦。

Img_2075天神社

伊勢田川を渡って遍路道に入った所。 

Img_2084弥勒菩薩石像など 《地図

借戸坂(八坂の一つ)の坂下の三浦浜(八浜の一つ)跡あたり。

Img_2077石像の由来

「天保5年(1834)この浅川湾をのぞむ景勝の地三浦浜に造立」 とある。三浦浜は八坂八浜の借戸坂の坂下の浜。

Img_2080三浦浜跡(弥勒菩薩石像前)

埋め立てられてしまった。その向う側は浅川漁港。

Img_2085借戸坂跡あたりの新しい切通しの坂

右側が弥勒菩薩石像のある丘、手前が三浦浜跡。

Img_2089浅川漁港

Img_2091周辺の避難地図

観音庵の所に津波供養地蔵堂がある。観音庵は見当たらず。左下に「スベリ坂」がある。

Img_2095寛永4年(1627)の津波供養地蔵堂

Img_2093由来碑

文中に「大潮指込浦上村カラウト坂ノ麓マデ上リ・・・」とある。カラウト坂は八坂の一つ「借戸(かろうと坂」のこと。

Img_2094津波供養地蔵尊

正徳2年(1712)7月の造立。

Img_2098中世代の底痕群

岩石の表面に残る水流や古生物の生態を示す底痕。というがよく分からない。

Img_2097説明板

Img_2101ヨハネス・クヌッセン機関長の碑

紀伊水道で水難した日本人を助けようとして殉難死した、デンマークの貨物船の機関長の追悼碑。この時クヌッセン40歳。この航海を最後に郷里で念願の農園生活に入る予定であった。

自国の漁船にぶつかり、知らん顔で責任も認めないどこかの国の海上自衛隊に聞かせたい話だ。自衛隊にとって自衛とは国民を守ることでなく、自分達を守ることなのだろう。

Img_2100説明板

Img_2105スベリ坂(坂上方向) 【ルート地図】の181

ここは海陽町浅川字スベリ石。

Img_2108下りとなる。

Img_2112まぜの里(デイサービス)

「まぜ」は「南風」のこと。

Img_2120大里古墳

直径約20mの円墳。6C末~7C初の築造。横穴式石室。

Img_2114説明板

Img_2117石室の天井石

Img_2127海部川橋から愛宕山

愛宕山の海部川河口近くに海部城があった。

Img_2139海部川橋と海部城跡

←の所

Img_2130楠神社

Img_2131海部駅(JR牟岐線の終点)

Img_2134延命地蔵堂(国道55号沿い)

Img_2142那佐湾

左先端が乳ノ崎 《地図

Img_2148左が国道55号で徳島方向、正面は太平洋。

Img_2150湾の奥

正面は二子島か。

Img_2160乳ノ崎狼煙台

幕末の海上警備のため対岸の乳ノ崎の山頂に設置された。

Img_2157狼煙台説明板

Img_2158島弥九郎事件跡説明板

島弥九郎は長宗我部元親の末弟。元親の阿波侵攻の口火となった事件という。

Img_2167旧土佐街道入口

Img_2169出口

Img_2175願行寺

Img_2181古目大師(番外霊場) 《地図

【ル-ト地図】の189

地元では清水大師という名で親しまれている。清水の豊かな古くからの大師堂だが、番外霊場としての記録は」不明という。

Img_2179昭和21年12月21日の津波襲来地点(古目大師前)

この上の弁天山が津波避難場所に指定されている。

Img_2183宍喰大橋(宍喰川・(国道55号)をくぐる。

Img_2190化石漣痕 【ルート地図】の190

砂質泥板岩の薄い表面に「さざなみ」の跡が化石として残った、「波の化石」。露出面積と規模は日本一とか。

Img_2189説明板

Img_2193みとこ(水床)湾

阿波の松島?

Img_2194説明板

Img_2202金目番所跡

阿波藩が土佐藩との国境においた関所。古目大師のある古目にも置かれていた。

Img_2208迂回した水床トンネル(638m) 《地図

高知県に入る。

Img_2211右へ旧道に入り甲浦の町へ下って行く。左は国道55号。

Img_2222熊野神社

Img_2226甲浦漁港

Img_2232五社神社

Img_2243白浜海水浴場(東洋町) 《地図

Img_2250甲浦(かんのうら)坂 【ルート地図】の193

甲浦坂トンネルへ上って下る。

Img_2252トンネルの手前で迂回路だと思って入ったが・・・。

Img_2265トンネルの反対側の見晴らしのいい所まで上って来たがこの先で行き止まり。同じ道を引き返し甲浦坂トンネルを抜ける。下の海岸は生見サーフィンビーチだろう。

Img_2266甲浦坂トンネル(150m) 《地図

Img_2269トンネルを抜け下って民宿谷口へ。

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