2008年10月

2008年10月27日

和加松旅館・・・玉姫の墓・・・四万十市郷土資料館・中村城跡・・・幸徳秋水の墓・・・祇園社(須賀神社)・・・四万十川橋(赤鉄橋)・・・一條神社・・・(土佐くろしお鉄道)・・・太平寺・・・長池神社・・・天御中主神社・・・不破八幡宮・・・四万十川・・・中村駅(土佐くろしお鉄道・JR土讃線) → 高知駅・・・安楽寺(30番奥の院・元30番札所)・・・大川筋武家屋敷資料館・・・豊栄橋(江の口川)・・・大町桂月誕生地・・・高知城・・・坂本龍馬誕生地・・・思案橋・・・龍馬の生まれたまち記念館・・・旧山内家下屋敷・・・高知大神宮・・・武市瑞山殉節地・・・吉田東洋殉難地・・・はりまや橋・・・高知橋・・・高知駅

 土佐の小京都、四万十川と後川に挟まれた中村の町を散策し、高知駅に出て元の30番札所だった安楽寺へ寄り、高知城から玉水町の思安橋(跡)まで足をのばし、はりまや橋で今回の四国遍路道の坂道散歩の打ち止めとした。

  【ル-ト地図】(350→357)・高知駅周辺(265-2→265-6)

  *参考:『四万十タウンマップ』・『高知城周辺史跡マップ』  

Img_4084玉姫の墓

【ル-ト地図】の352

土佐一条家第二代房冬の夫人。

Img_4088四万十市立郷土資料館

【ル-ト地図】の350

Img_4089後川、石見寺方向

Img_4094四万十川橋(赤鉄橋)・渡川大橋方向

Img_4106中村城石垣

中村城は為松山頂にあった4つの城の連立式城郭。

Img_4105説明板

Img_4116幸徳秋水の墓

【ル-ト地図】の351

Img_4117説明板

Img_4124祇園社

Img_4125説明板

Img_4127四万十川橋(赤鉄橋)

【ル-ト地図】の354

Img_4128四万十川

Img_4133一條神社

【ル-ト地図】の355

応仁の乱で京から下向した一条氏の中村御所跡に建つ。

Img_4130説明板

Img_4132咲かずの藤」説明板

Img_4135御化粧井戸

Img_4134説明板

Img_4136今も水を溜めている。

Img_4137本殿・天満宮(左)

Img_4141説明板

Img_4142天神社由来

Img_4139中村御所説明板

Img_4140配置図

Img_4145リュックのベルトにじゃれる子猫

Img_4148太平寺

Img_4097説明板

Img_4149本堂

Img_4153長池神社

Img_4167天御中主神命神社

Img_4155不破八幡宮

【ル-ト地図】の357

Img_4160説明板

Img_4157本堂

Img_4159神木の楠

Img_4164四万十川原から

確かに水は澄んでいる。

******ここからは高知城下******

Img_4171安楽寺(30番奥の院・元30番札所) 《地図

平成6年までは善楽寺とこの寺の二つの30番札所が存在し、「遍路迷わせの三十番」と言われてきた。

Img_4169多宝塔

Img_4175一言地蔵

Img_4180薫的神社(洞ケ島神社) (安楽寺の隣り)

土佐の「イゴッソウ」の元締めのような薫的和尚を祀る。四万十市中村にも薫的神社があり、訴訟事、勝負事の神様、試験合格の神様として人気がある。

Img_4182薫的和尚が自害した牢屋

頑固で激情型の人物だったようだ。

Img_4181説明板

Img_4185薫的和尚の廟。

Img_4191大川筋武家屋敷資料館

【ル-ト地図】の265-3

Img_4187説明板①

Img_4188説明板②

Img_4199高知城

Img_4207詰門

Img_4208説明板

Img_4215天守閣から東方向

正面奥の丘が岡豊城跡

Img_4219武者隠

正面の襖の後ろに畳敷きの小部屋がある。

Img_4223黒鉄門

Img_4225城内のこの鐘はもとは一時廃寺となった善楽寺にあったものともいうが。

Img_4238坂本龍馬誕生地 《地図

Img_4241思案橋(跡) 玉水町1と2の間 《地図

ここ玉水町にあった遊郭「上の新地」(玉水新地)へ、「行こか、戻ろか」思案した橋。ちなみに「下の新地」は鏡川の河口の埋立地にあったが戦災で廃業した。ここは戦後まで赤線地帯だったという。どこかに高知城へ向う武士たちが、ここでどの道を通って城へ行こうか思案したなんて書いてあったがそうだろうか。長崎の思案橋は『長崎市の坂-2』、金沢のは『金沢市の坂-4』、津山は『出雲街道(津山宿)』に記載。

Img_4240思案橋

低い橋柱の下に水が流れているから今も現役の橋か。橋の上は道路と一体化しているので橋とは気がつかないだろう。もう一方の橋柱に「大正十五年五月架換」とある。

Img_4251露店の市

思案橋の手前の上町5の通り。

Img_4253龍馬の生まれたまち記念館

Img_4259旧山内家下屋敷長屋跡 《地図

現在は三翠園の敷地の一部になっているようだ。

Img_4254説明板

Img_4255内側から

Img_4266高知大神宮

【ル-ト地図】265-5

Img_4267よさこい稲荷(大神宮境内)

京都河原町の土佐藩主山内邸にあった土佐稲荷を遷し、平成11年に「よさこい稲荷神社」と改称した。昭和40年頃まで縁の下に狐が棲んでいたという。

Img_4277はりまや橋(播磨屋橋)とお馬と純信の石像。《地図

「日本三大がっかり名所」の一つ。「がっかり橋」か。

2008年10月26日

民宿みやこ・・・浮津橋(東分川)・・・大師堂・・・湊川・・・松原大橋・・・入野松原・・・大方あかつき館・・・賀茂八幡宮・賀茂神社・・・(土佐くろしお鉄道中村線)・・・国道56号・・・蛎瀬(かきせ)川・・・逢坂・逢坂トンネル(210m)・・・古津賀古墳・古津賀神社・・・県道333号・・・春日神社・・・八宗田排水機場・・・石見寺(番外霊場)・厳島神社・・・安並運動公園・・・後川橋(後川)・・・奥御前宮・・・幡多郡奉行所跡・・・行余館跡(藩校)・・・中村大神宮・・・旅館和加松

 小雨の中を国道56号を進み大師堂の先で入野海岸、入野松原の方へ遍路道に入る。日曜のせいか雨にもかかわらず朝早くから車で来ている家族連れ、サーフィンを楽しむ若者たちで海岸は賑わっている。38番金剛福寺へは海岸寄りを行って県道42号に出て南下し、四万十大橋を渡った方が近道だが、今回の四国遍路道の坂道散歩もそろそろ打ち止めにするので、賀茂八満宮のあたりで海岸から離れ、土佐入野駅近くで土佐くろしお鉄道を渡り国道56号に出て、四万十川と後川に挟まれた中村の町を目指す。照明がやけに明るい焼坂トンネルを抜けると黒潮町から四万十市(旧中村市)に入る。黒潮町の手前に四万十町(旧窪川町)もある。ポピュラーな四万十(川)の名をつけたいのだろう。

 古津賀駅を過ぎ、古津賀神社が乗る古津賀古墳の石室を見て、後川の手前で国道56号から離れ、後川の上流へ県道333号を石見寺を目指す。八宗田排水機場あたりから道がはっきりしない。道標もなく、田畑の中の道で聞こうにも誰も通らない。石見寺は70mの高さにある。右前方の丘上にお堂のようなものが見えるが高さが70mもあるようには見えないが、取り合えず行って見ることにする。集落の一角に「古刹石見寺」の石柱があった。しかしその後ろは民家で上る道はない。ちょうど通りかかった男性に脇から上る道を教わる。途中から薄暗い急坂になり最後は石段が山門へ続いていた。やっぱりこの道が表参道なのだろう。昔は札所の一つだったという境内はけっこう広く、静かで落ち着いた雰囲気だ。

 石見寺から下って後川橋を渡り、一条教房が応仁の乱を避け京から下向して幡多地方の中心地として栄えた中村の町に入る。雨も降っているし、3時を過ぎているので町中の散策は明日にして早めに旅館和加松に入る。今日の泊り客は私一人。先週の四万十川ウルトラマラソン(100km)の時はてんてこ舞いの忙しさだったそうだ。旅館で経営する近くの割烹わかまつで夕食だ。明日はのんびりと中村の町を歩いてから高知駅に向うだけなので気楽な気分だ。旨い酒と料理で久しぶりにゆっくりとくつろいでから旅館に戻り、女将と長話し。今日は少し夜更かしして、(といっても11時頃までだが)静かな部屋で少し?酔っ払って朝までぐっすりだった。

  【ルート地図】(338→349)

  *参考:『四万十タウンマップ  

Img_3947大師堂

Img_3948にぎやかな堂内

Img_3961入野松原 【ルート地図】の339

長さ4km、幅550mに数万本の松が並ぶ。天正年間(1573年~92年)に長宗我部氏の中村城代谷忠兵衛が植えたのが始めと伝える防潮林。

Img_3962野宿遍路ではない、日曜なので昨日から家族連れのキャンプだろう。

Img_3966いい波が来てサーフィンを楽しんでいる。ウエットスーツを着ていても冷たいだろう。

Img_3969大方あかつき館

郷土出身の作家、上林暁文学館などが入っている。

Img_3973安政津波の碑

磨り減っていて今は判読困難だ。

Img_3971碑文

冒頭の嘉永七甲寅は、この年の10月27日に安政に改元されていて、碑文作成者の勘違いらしい。

Img_3974賀茂八幡宮

入野の総鎮守。境内に賀茂神社もある。

Img_3975賀茂神社(八幡宮境内)

Img_3978足摺山は38番金剛福寺のこと。

Img_3980土佐くろしお鉄道中村線

特急のようだ。

Img_3988逢坂 

逢坂峠、逢坂トンネルへ上る。

Img_3990逢坂トンネル

【ル-ト地図】の341

こんなに明るいと歩きやすく有りがたいが、ちょっともったいない気もする。

Img_3993_2逢坂 

トンネルを抜けて黒潮町から四万十市へ下る。

Img_4015古津賀古墳横穴石室 【ルート地図】の342

6世紀後半から7世紀前半の円墳

Img_3996_2説明板

幡多郷土資料館は四万十市郷土資料館のこと。

Img_4002横穴石室内

Img_4012石室の上

天井石か

Img_4096古墳全景

四万十市郷土資料館にて(10/27)

Img_4013古津賀神社

古墳の上に建つ。

Img_4021春日神社

石見寺への途中

Img_4027「古刹 石見寺」の石柱

こちらから上るのが本来の表参道だったのだろう。今は五輪塔?の先には民家が建ち道は続いていない。

Img_4032薄暗い道を上る。

Img_4038石見寺山門 【ルート地図】の344

Img_4039_2縁起

Img_4041本堂

昔は八十八ヵ所札所の一つだったという。境内は広く、以前はユースホステルもあった。

Img_4042大師堂

Img_4045ぼけ封じ地蔵

観音さんのような小さな木像。

Img_4049厳島神社への急な参道(石見寺へ上る参拝用の車道の入口近く。)

この上に小社がある。

Img_4058後川橋から中村城跡方向

正面の城は愛知県の犬山城をモデルに建築された、四万十市立郷土資料館

Img_4062奥御前宮

承久の昔(1221年頃)、土御門上皇の遷幸の際の行在所跡(仮の御所)で、上皇が鞍馬の貴船神社から勧請した神社。境内に一条教房の墓もあるようだ。

Img_4066幡多郡奉行所跡 【ルート地図】の348

今は中村拘置支所

Img_4063説明板

2008年10月25日

末広旅館・・・国道56号・・・四国電力産業廃棄物保管場所・市野瀬遍路道・片坂・・・国道56号・・・拳ノ川・・・佐賀温泉・・・文殊堂・・・身代り地蔵・・・伊与木城跡碑・・・八幡宮・・・熊井トンネル・・・(土佐くろしお鉄道中村線)・・・衰(水)神坂・・・(土佐佐賀駅)・・・佐賀橋(伊与木川)・・・国道56号・・・鹿島ケ浦・・・井の岬トンネル(320m)・・・天満宮・・・伊田トンネル(172m)・・・観音寺・・・有井川橋・・・土佐東寺庵・・・王無の浜・海の王迎駅・・・民宿みやこ

 37番岩本寺から足摺岬の38番金剛福寺までは80km以上で88寺の札所間では最長距離。今回の遍路道歩きは途中の四万十川沿いの町、中村まで。国道56号に出てゆるやかに上って行く。広い道でさほど上った感じはしないが、峰の上交差点の手前は標高290mほどあった。四国電力の敷地から市野瀬遍路道に入り、片坂を下って国道を短絡する。再び国道に出ると起伏のある単調な道が続き少し飽きてくる。

 伊与木駅の先で遍路道に入り、八幡宮の脇を上って、旧県道だった熊井トンネルを抜ける。今は車も通らず静かな昔を感じさせるトンネルで気に入った。トンネルを抜けた所で学者風遍路のKさんが休憩していた。昨日は岩本寺の宿坊に泊まったそうだ。土佐くろしお鉄道を渡り、国道56号に出たがこの先、国道を進んでよいものか迷ったので、Kさんを待つ。やっぱり国道を行って土佐佐賀駅へ出るようだ。国道の坂を上り始めたら衰神(水神)坂の説明板があるのに気がついた。もちろんKさんには先に行ってもらう。この坂は坂自体に面白味はないが、昔話の残る坂だ(昔話もそれほど面白くはないが)。

 土佐佐賀駅で休憩して時刻表を見ると10分ほどで電車が来る時間だ。急いで近くの伊与木川まで行き、川を渡る電車の写真を撮ることにする。伊与木川を渡り国道56号に出て、鹿島ケ浦から海岸沿いに佐賀公園、白浜と過ぎる。灘で海岸から離れ井の岬トンネル、伊田トンネルを抜け観音寺で一休み。南北朝時代の逸話の残る王無しの浜から、変わった駅名の「海の王迎」駅に寄って今夜の宿「民宿みやこ」に着いた。ちょうど隣りの民宿日の出にKさんが入って行った。まだ4時前で一人で大きなフロでゆったりとくつろぐ。5時頃、静岡のOさんともう一人がやって来た。夕食は土地の中年グループが10人ほどが一緒で賑やかで、今日は土曜日でここに泊まったようだった。

  【ルート地図】(325→337)   

Img_3778峰の上交差点近く(290m位か) 

Img_3784

四国電力産業廃棄物保管所

ここを左に曲がって市野瀬遍路道へ。

Img_3787民家の前

Img_3789扉を開けて四国電力の敷地?内を抜ける。

Img_3791片坂 【ルート地図】の326

市野瀬遍路道

Img_3795片坂第2トンネル

市野瀬遍路道保全橋から

Img_3804片坂(国道56号)

Img_3808猿田神社の案内板

Img_3812佐賀温泉

Img_3820文殊堂

Img_3817説明板

Img_3818文殊菩薩

Img_3823身代り地蔵

ここを通るお遍路、通行人のために遍路の有志が建てたもののようだ。

Img_3825伊与木城跡の石柱

近くの山頂にあった城というが詳細は分からず。

Img_3831スクールバス停留所跡

今は歩き遍路の格好な休憩所、野宿遍路用の宿。

Img_3833八幡宮 《地図

Img_3836熊井トンネルへ 【ルート地図】の329

Img_3838説明板

Img_3837「トンネルというものは入口は大きいが出口は小さいものぢゃのう」と言った土地の老人の気持ちはよく分かる。

Img_3843中は歴史を感じる。これが県道だったとは。車のすれ違いは出来ない。

Img_3845抜けて土佐くろしお鉄道の方へ下って行く。

Img_3849土佐くろしお鉄道を渡る。

Img_3858衰神(水神)坂(坂上近く) 【ルート地図】の330

「衰神坂の昔話」:「昔、飢饉の時にこの村に一人の山伏がやって来て村人に物乞いをした。自分たちのその日の食べ物にも困っていた村人たちはどの家でも断った。山伏は怒ってこの坂から村めがけて村が衰えるようにとホラ貝を吹きはじめた。するとあたりは暗くなり、強風、雷、豪雨となった。この時、異変に気づいた伊与木川岸に住んでいた修験者が、庭先から衰神坂めがけてホラ貝を吹き返した。この音色が作法通りの格上だったため山伏は金縛りにかかってしまった。山伏は反省して村人に許しを願い、村人も快く山伏を許した。金縛りも解け、山伏は村人に見送られて西国へ旅立ったという。」 (下の昔話からの要約)

Img_3855「衰(水)神坂」の昔話①

Img_3853その②

Img_3860坂下方向

Img_3862坂上から土佐佐賀駅の方へ下って行く。

Img_3869伊与木川を渡るJR土讃線

Img_3877鹿島ケ浦 《地図

Img_3892鹿島ケ浦(土佐西南大規模公園佐賀から)

正面左が鹿島だろう。「(土佐西南)大規模地震」を連想してしまう公園の名だ。まだ地震は起きていないが。

Img_3907井の岬トンネルを抜けて

Img_3911天満宮

Img_3914観音寺 

Img_3926朝鮮国女の墓」入口

【ル-ト地図】の334

慶長の役の時の長宗我部軍の捕虜の女子。言葉も通じない異国で一人さびしく暮らし、機織の技術を近郷に広めてひっそりと生涯を閉じたという。

Img_3927土佐東寺庵

無料接待所らしいが、閉まっていてよく分からない。

Img_3929王無の浜 【ルート地図】の336

「王」とは後醍醐天皇の第一皇子の尊良親王のこと。説明板ではなぜ「王無し」なのか分からない。『尊良親王哀歌』によれば、「有井三郎が宮を迎えにこの浜に来た時には、すでに大平弾正が宮を警護してこの浜を立ち去った後だったので、「王無しの浜」と呼ぶようになった。」 有井三郎が一族の者を待たせた有井川村と上川口村の間にある坂を「待つ王坂」(椎の木坂)という。(有井川駅と土佐上川口駅の間の近くか)

Img_3931説明板

Img_3932「尊良親王御上陸地」碑

Img_3936「海の王迎」(うみのおうむかえ)駅から「王無しの浜」

ユニークな駅名だ。

2008年10月24日

Img_3700_2柳屋旅館・・・国道56号・・・新庄川橋・・・角谷トンネル(420m)・・・久保津トンネル(130m)・・・安和トンネル(245m)・・・桜川橋・・・焼坂・焼坂峠(228m)・・・(JR土讃線)・・・長沢川・・・久礼八幡宮・・・(JR土讃線)・・・大坂橋(大坂谷川)・・・大坂・不動の滝・大坂遍路道(上の写真)・・・七子峠(287m)・・・国道56号・・・お雪椿・・・活禅寺窪川別院・・・(JR土讃線)・・・替坂橋(仁井田川)・・・東又川・・・道の駅あぐり窪川・・・県道19号・・・呼坂・呼坂トンネル(153m)・・・吉見川橋・・・37番岩本寺・・・末広旅館

 夜中の雨音はすごかったが、今朝は雨は上がっている。相当降ったので焼坂峠、七子峠への大坂遍路道は大丈夫かちょっと心配だ。一番先に宿を出る。ご老体遍路は電車で土佐久礼まで行くらしい。いくつかトンネルを抜け、安和駅の先で焼坂峠への遍路道に入る。やっぱり下はぬかるんでいて所々道に水が浮いている。それよりも蒸し暑いのとやぶ蚊と蜘蛛の巣には参った。焼坂峠から下って道路工事現場からJR土讃線を越え、線路沿いに土佐久礼の町中に入る。久礼八幡宮に寄ってから、大坂谷川沿いに大坂遍路道に入る。途中、テントの中から足を出して寝ている人がいる。埼玉から来た野宿旅行青年のようだ。起こさないようにそっと通りすぎる。不動の滝?のところでは流れが道にあふれていたが、難なく七子峠へ出た。晴れてきて土佐湾方向の眺めが素晴らしい。風が強く、地図のコピーを谷へ吹き飛ばされてしまった。

 七子峠から国道56号を下り、影野駅近くで遍路道の近道に入り、再び国道に合流し、土讃線を右に見て国道を行く。午後になって疲れも出てきてやっぱり国道歩きはつらい。道の駅あぐりで休憩し、県道19号に入り、呼坂トンネルを抜けて下ると窪川の町中に入る。37番岩本寺は本堂にさまざまな現代の天井画が書かれて面白く、見上げていると首が疲れる。宿坊前のベンチに静岡のOさんと、ご老体遍路が腰掛けていた。Oさんはここへ、ご老体は近くの宿へ泊まるとのこと。こちらも宿坊は苦手(食わず嫌いか)なので末広旅館へ向った。6時を過ぎても夕食の声がかからないので下へ行くと、夕食は部屋へ運ぶとのこと。なんだか一人だと味気ない。量は多いが料理は冷めていて、一人で飲むビールの味もイマイチだった。

  【ルート地図】(314-3→324)  

Img_3621新庄川橋の先から

雲が切れかけて明るくなってきた。

Img_3629土佐湾

久保津トンネルを抜けた所から。

Img_3638焼坂峠への道標

Img_3639焼坂峠へ

Img_3640遍路道標

Img_3647_2焼坂 

Img_3652焼坂峠近くから土佐湾

Img_3653焼坂峠あたり(標高228m)

【ル-ト地図】の315

Img_3658昨日の雨で滝?の流水が増え道を覆っている。

Img_3666遍路休憩所

Img_3668「そえみみず遍路道」は今年一ぱい通行止

Img_3671長沢川の土手

ここから土佐久礼の町並みに入る。

Img_3674西岡酒造店

Img_3677久礼八幡宮 【ルート地図】の316

由緒書によると佐竹氏が勧請した神社。水戸家の前の常陸の領主で秋田に国替えになった佐竹氏の一族で、鎌倉時代に常陸国からここに来住し、後に幡多郡(中村市)の一条氏の重臣となったが、長宗我元親の軍門に下り、大坂夏の陣(1615年)で長宗我盛親と共に滅んだ。近くの久礼城跡は佐竹氏の居城だった。佐竹氏の系図にある佐竹義直は明暦2年(1656)に死んでいるので由緒書の佐竹信濃守源義直(天正9年(1581)に死去とある。)とは別人物だ。(佐竹東家にも義直が、また(額田)義直(佐竹氏4代義重の次男)もいるがこれも別人物だ。) 由緒書の「義直の祖父・・(中略)・・応永年代でないことは明らかである。」はおかしい。由緒書にある「藩庁に出した記録」にあるように、室町時代の応永年中(1394~1428)に佐竹氏の当主が関東から勧請した神社なのだろう。鎌倉時代に最初にこの地に来たのは佐竹家の誰だったのだろうか?

Img_3675由緒書①

Img_3676由緒書②

Img_3678町立美術館

Img_3680大谷川

Img_3685青木坂の五輪塔群(池田氏五輪塔群

大谷川を渡った所にあるようだ。青木坂と言っても傾斜はほとんどないようだ。

Img_3693大坂

新しい道路の工事中、トンネルも掘られている。

Img_3695米の二期作か

Img_3697大坂遍路道を上って行く。

Img_3698埼玉からの野宿旅行青年のようだ。

起こさず静かに通り過ぎる。

Img_3706不動の滝?

左上に不動像

Img_3717七子峠(287m)から久礼湾、土佐湾 【ルート地図】の320 (大坂遍路道を上った所)

七子峠哀歌:「この峠の北山の城主だった白皇千助兵衛は戦いに敗れ討死した。妻女は七人の子と共にここから谷へ身を投じた。翌年の春から美しい鶴がこの峠の上を舞うようになった。毎年春の7日間、7年間舞った後、8年目から鶴は来なくなった。里人たちはこの鶴こそ子どもを失った母親の化身と思い、この峠を「七子峠」と名づけたという。」

七つの集落「七郷」からきているとも、七戸の茶屋があったからともいわれている。

Img_3711七子峠哀歌①

Img_3715七子峠哀歌②

Img_3723お雪椿(四万十町) 《地図

Img_3720_2説明板

Img_3731遍路道

国道56号から離れ影野駅の先でJR土讃線を越え、また国道56号に合流する。

Img_3754呼坂トンネルを出て下る。

Img_3758苔むした崖がいい。

Img_3757呼坂(坂下方向) 

Img_376137番岩本寺 【ルート地図】の323

Img_3765_2本堂

この寺には七不思議の伝説がある。①子安桜、②戸たてずの庄屋、③筆草、④尻なし貝、⑤三度栗、⑥口なし蛭、⑦桜貝、というが説明板もないようで(見逃したのかも)どれか分からず。⑤の三度栗のお菓子は門前の店で売っていた。

Img_3764本堂の天井画

いろんなジャンルの絵が見下ろしている。

Img_3766説明板

Img_3767大師堂

2008年10月23日

国民宿舎土佐・・・宇佐大橋・・・県道23号・・・水産試験場・・・深浦漁港・・・浦ノ内小学校・・・・・・鳴瀧八幡宮・・・出見公民館・・・花山院廟(番外霊場)・・・浦ノ内トンネル・・・東立目川・・・浦ノ内中学校・・・鳴無神社・・・笠松橋(東分川)・・・県道314号・・・仏坂遍路道・・・仏坂不動尊(岩不動)(番外霊場)・光明峯寺・・・仏坂・・・県道314号・・・(新川橋)・・・塩木橋(桜川)・・・(源蔵橋)・・・(大峰橋)・・・須崎(すさき)港・・・御手洗川橋・・・(JR土讃線)・・・観音寺(番外霊場)・・・須崎市役所・・・(国道56号)・・・お馬堂(お馬神社)・・・めがね橋通り・・・土佐藩中砲台跡・・・須崎八幡宮・西鴨神社・・・今清神社・・・大善寺(番外霊場・別格第五番札所)・・・柳屋旅館

 雨の中をカーブが続く車道を下って宇佐大橋まで打ち戻り、浦ノ内湾沿いに横浪三里を行く。37番岩本寺までは58kmほどで、今日は須崎までの坂道散歩。西へ進んでいるのだが、入り組んだ小さな入江を曲がり回りながら行くので、なんだが湾を一回りしているようで前に進んでいる気がしない。浦ノ内小学校への上りの所で土地の人らしき青年に道を確認する。後で知ったがこの青年は埼玉県の熊谷から歩いて来ている野宿旅行者で沖縄まで行くという。札所は全部は回らないそうだ。浦ノ内小学校の前に「どうして歩いているのですか。」という質問棚が置いてある。疲れた顔で黙々と坂を上って来るお遍路が不思議なのだろうか。

 県道から離れ花山院廟への道に入る。花山院廟は直接、弘法大師とは縁はないが、西国三十三観音霊場巡りを再興したとされる花山法皇に敬意を払ってか、古くからの番外霊場になっているようだ。浦ノ内中学校先のコンビニの前で昼飯のパンを食べていると、篭を背負った僧侶風のお遍路がやって来た。僧ではなくこの人も野宿遍路だった。毎日、歩ける所まで行き、疲れたら公園、海岸などで寝て、川で水浴びをしてフロ代わりにするという。ただ、主に国道・県道を歩き、起伏があり遠回りになる遍路道には入らないようだ。この先の仏坂遍路道には上らずに県道23号を行くという。僧侶風遍路が発った後に、埼玉の野宿旅行者がやって来た。すごい荷物だ、大きなリュックに両手にも重そうな袋をぶらさげて引きずるように歩いている。ノートパソコンまで入っているという。熊谷からここまでもよく歩いて来たが、この先沖縄まで行くとは。こんな調子で歩いていたら沖縄に着くのは来年になるだろうか? その後はどうするのか聞きたかったが止めといた。

 昼飯を食べている野宿青年に励ましと別れを告げ、県道23号から離れ県道314号に入り仏坂遍路道を目指す。ちょうど県道から遍路道に入るあたりで小降りだった雨が激しくなってきた。車を止め煙草をふかして休憩している郵便配達員が怪訝そうな顔でこっちを見ている。坂道散歩人はこれしきの雨はどうってことはないと遍路道に入る。急な山道となり、傘をさして雨具を着ているので蒸し暑くて参った。一旦県道に出て少し行くと仏坂不動尊への下りの遍路道に入る。急な石畳は雨でつるつるで滑ること。折れ枝を杖に道の端っこを通ってなんとか仏坂不動尊(岩不動)に下りた。小さなお堂に岩の不動さんが納まっているが、他に不動堂、光明峯寺などがあってけっこう広い空間だった。岩不動の前で休憩している間に雨も小降りになってきた。なだらかで静かな仏坂を下る。滑る心配もなく気分がいい。

 県道314号に合流し、桜川沿いを進み大峰橋で須崎港を渡る。JR土讃線を渡り国道56号に出ると番外霊場の観音寺は近い。後ろから土地のおじさんに話しかけられる。東北から歩いて来た人がいたという。埼玉からといい、東北からといい兵(つわもの)限りなしということか。須崎市役所前を通り、「よさこい節」ゆかりのお馬神社から市街地に入る。商店街は繁盛している方か。近くをざっと一回りしてから大善寺の鐘楼に上る。須崎港の眺めがいい。すぐ下に今夜の宿、柳屋旅館の宿が広がっている。この宿は昔ながらのどっしりした造りで落ち着ける。平成18年のNHKドラマの「ウオーカーズ」のロケにも使われたそうだ。夕食は昨日、国民宿舎土佐で一緒だった、一人歩きのご老体遍路と中年の学者風遍路の三人。二人が日本酒を旨そうに飲むので、こっちもビールの後、熱燗を飲むとする。今夜から明日の朝にかけて大雨になるらしい。明日の焼坂峠越え、大坂遍路道から七子峠へは大丈夫だろうか。大坂遍路道は流水で通行不能の時もあるという。そんなことを話しているうちに気持ち良く酔っていった。 

  【ルート地図】(296→314-2)

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Img_3485浦ノ内湾

Img_3489浦ノ内漁港

Img_3494浦ノ内小学校の方へ上って行く。

少し浦ノ内湾から離れる。

Img_3495浦ノ内小学校前

「どうして歩いているんですか」の質問の紙と、返事用のはがき、地蔵の顔が書かれた小石(10円)が置いてある。なかなか答えが難しい。坂道散歩の延長だといっても分からないだろうし、弘法大師への信心があるでもないし。自分探しの旅、触れ合いを求めての旅なんて全くの嘘だし。ちなみに我家の宗派は真言宗だ。だったが正確か。

Img_3497下って行くとまた浦ノ内湾に出る。

Img_3499鳴滝八幡宮

Img_3506花山院廟(番外霊場) 【ルート地図】の300

もとは春日山阿弥陀寺といい、花山院の位牌を安置していたという。花山院西国三十三カ所観音霊場巡りを再興したともいわれる。四国札所の番外博士、客員教授というところか。今年は花山院没後1000年にあたる。

Img_3509浦ノ内トンネル

Img_3523仏坂へ

Img_3526雨が激しくなってきた。

ここから右に山道へ入ったと思う。

Img_3527山も煙っている。

Img_3529下って仏坂不動尊(岩不動)へ

Img_3531少し下った所から見上げる。

雨で滑る石畳を折れ木を杖に慎重に下る。(上の小堂は不動堂ではない。)

Img_3539仏坂不動尊(岩不動) 【ルート地図】の304

Img_3540仏坂不動尊(岩不動)

岩に字が書かれているのか。大師がこの坂を越えた時、紫雲がたなびき諸仏が現れ、大師が正面の岩に触れた時、不動明王が現れたという。

Img_3542不動堂

Img_3541ここには不動明王像

Img_3551仏坂(坂下方向) 仏坂不動尊から下る坂。【ルート地図】の305

Img_3584須崎港

Img_3590観音寺(番外霊場) 《地図

百済の仏師達が帰路、海上安全を祈り堂宇を建立し、正観音像を安置したという。

一年に三度栗が実る「三度栗」の伝説がある。(説明板)

Img_3591説明板

Img_3592三度栗

Img_3595お馬堂(お馬神社) 【ルート地図】の309

「よさこい節」のヒロインのお馬さんを祀る。縁結びにご利益あり。「よさこい節秘話」、「お馬さん」については、『四国遍路道高知県⑤』に記載。

Img_3596説明板

Img_3600中砲台跡 《地図

跡といっても跡形もない感じだ。西浜公園の西砲台の方が跡がしっかり残っているようだ。

Img_3599_2説明板

Img_3602須崎八幡宮

Img_3601説明板

Img_3606ノルマントン号事件の碑(須崎八幡宮の前)

不平等条約改正にきっかけの一つになった事件とか。

Img_3605説明板

Img_3608今清神社

Img_3609大善寺(番外霊場・別格第五番札所) 【ルート地図】の314

細く上に伸びている境内だ。大師の海上安全、守護にまつわる話を伝え、「二つ石大師」といわれる。(説明板②)

Img_3610説明板①

Img_3611説明板②

Img_3615大善寺から

下は旅館柳屋の屋根。かなり広い敷地だ。

Img_3941仏坂不動尊近くで拾った栗。

家に持ち帰ったが、皮が堅くてむけないという。

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