2009年08月

2009年8月26日

前橋駅(JR両毛線)・・・隆興寺・・・天狗坂・東福寺・・・馬場川通り・・・縁切り坂・・・前橋望景の碑・・・馬場川通り・・・前橋城車橋門跡・・・市立図書館・・・清光寺・・・長壁神社・・・虎姫観音堂・・・前橋城跡・・・前橋公園・東照宮・・・臨江閣・・・石川橋(広瀬川)・・・雷電神社・・・森厳寺・・・梅が橋(広瀬川)・・・稲荷橋・・・県道6号・・・飛石稲荷・・・県道6号・・・(群馬大学附属病院)・・・若宮4丁目交差点・・・県道4号・・・北代田橋(桃ノ木橋)・・・南白川橋(赤城白川)・・・大悟橋(竜ノ口川)・・・鎌倉川・鎌倉中学校・・・鎌倉坂・・・県道76号・・・大国主神社・・・道進坊坂・・・日枝神社・善勝寺・・・県道76号・・・上泉郷蔵(上泉城跡)・・・流通橋(藤沢川)・・・県道3号・赤坂・・・赤坂駅(上毛電鉄)→中央前橋駅・・・前橋駅

 天狗坂の位置がはっきりせず、東福寺の回りを一周してなるほど分かった。天狗坂も縁切り坂も馬場川通りへ下る小さな坂で、由来話はともかく坂らしい感じはない。前橋は萩原朔太郎の故郷、先日、奥州街道の白河宿で朔太郎の妻の生まれた造り酒屋の前を通ったばかり。坂道散歩をしていると現在過去、いろんな人物との出会いがある。

 前橋城の車橋門跡から市立図書館に寄るが、目ぼしい資料は見つからず。吉田松陰の妹が創建した清光寺に寄り、利根川方向に向うと長壁神社がある。この神社には我がままな稲荷姫の伝説があり、前橋城の本丸があったという虎姫観音堂に祀られているのは怨霊となった虎姫だ。奥州街道日和田宿の蛇骨地蔵堂の由来話にも、大蛇となって人々を苦しめたあやめ姫がいる。そういえば根田宿の入口には安珍堂があった。清姫の妄執の炎も忘れたら叱られる。どこでも、いつの時代にも怖いのは・・・・。

 形のいい土塁が残る前橋城跡から北の前橋公園に入る。東照宮と県道を挟んだ北側のレトロの建物の臨江閣は入場無料なのが嬉しい。大きな部屋が続いていて壮観だ。夏休みもそろそろ終わりのせいかちょうど入場客は私一人。涼しい風が抜ける広い廊下で、管理の女性としばし雑談する。

 石川橋下の広瀬川は水位が高く、流れも速い。いわれのある梅が橋あたりは今は何の変哲もない所。橋柱の古さだけが残っていた。社殿の後ろにどっしりとした大岩を従えた飛石稲荷から県道6号を東に向う。県道4号の北代田交差点からいくつかの小川を渡り、県道76号の鎌倉橋交差点へ出ると、すぐ南から北条時頼の伝説のある鎌倉坂の上りとなる。今はこのあたりには鎌倉の風情はないが。

 端気(はけ)町と上沖町をつなぐという道進坊坂には3つの道筋が考えられる。①②③として歩いてみたが、①が一番適当に思うが自信はない。いい加減なものだ。鎌倉坂の由来話に出てくる善勝寺から県道76号に下り、上泉城址に残る郷蔵から藤沢川を渡り、県道の緩やかな赤坂を上って上毛電鉄の赤坂駅に着いた。

  【地図】  

Img_7598田中石材点の天狗坂の道標?

↑方向に直進したら隆興寺へ行ってしまった。天狗坂は反対方向。

Img_7610天狗坂(坂下方向) 国道50号から三河町1丁目の東福寺へ下る参道の坂。

東福寺の秘仏である聖天様は江戸時代大変信仰を集め、年一回の開帳日には特に若い男女の参拝が多かった。その姿を見た人たちが天狗の鼻を連想したことからこの名がついたという。

Img_7608山門と本堂の間に馬場川通りが通っている。

Img_7603坂上方向

馬場川通りの所から

Img_7604東福寺

永禄2年(1559)に創建され、酒井忠世の時に当地に移った真言宗の寺。

アジア風の本堂だ。今でも聖天様の開帳はあるのだろうか。

Img_7617縁切り坂 本町5丁目の東和銀行本店の東側を北西に馬場川通りへ下る坂。 

広瀬川の河原の処刑場に連れて行かれる罪人がこの坂を通った。罪人にとってはこの坂が今生の縁を切る所なので、縁切り坂と呼ぶようになった。相思相愛の男女が一緒に通ると縁が切れるという言い伝えがあった。どうしてもこの坂を通らなくてはならない時は、男女別々に通ったという。

広瀬川の河原に処刑場があったというのは事実だろうか? 詳しく調べていないので何とも言えず。

Img_7618坂下方向

Img_7619坂下の馬場川(通り)

縁切り坂の坂下の明聞寺(現在は移転)の隣地に「梅の井」があったという。 井戸の傍らに「八房の梅」があり、その水の噴き出るさまは、梅の花の形に見えたという。この井戸にちなんで、「梅の井亭」という寄席や銭湯、だんご屋の名にも使われ、「袖ごとに 香をとめて汲め 名に高き 群馬(くるま)のさとの 梅の井の水」(養行寺の行妙和尚)の石碑が立っていたという。この井戸も昭和38、39年頃に区画整理で埋立てられたそうだ。『前橋の伝説百話』より

Img_7630坂上方向

Img_7629前橋望景の碑

この地で生まれた萩原朔太郎の記念碑

Img_7628説明板

Img_7632巨大岩石

東和銀行建築の際の地中から出土したもの。飛石稲荷の大岩(後掲)と同じ系統のものだろうが、全然小さい。

Img_7631説明板

Img_7637前橋城車橋門跡(市指定史跡) 《地図

Img_7640長壁神社

姫路城から遷された神社。前橋城は利根川の流れを西の守りとして築かれたが、その流れは激しく毎年、城の崖を崩した。そこで城主は前橋城を捨て川越に移ろうとした。そんなある夜、城主の夢枕に一人の美女が現れ、「私は先代が姫路城からこの城に遷した長壁稲荷である。城を移るようだが今度もお供したい。」と頼んだ。しかし城主は城の守護神が城の守りも出来ず、城替えに連れて行ってもらいたいとはけしからんと思い願いを断った。それからと言うもの長壁稲荷は人々の夢枕に立ち、「川越に行きたい、行きたい」と言ったという。

Img_7642長壁稲荷社

社殿の後ろ側にひっそりと小さな祠がある。

Img_7645虎姫観音堂

怨霊となった虎姫を観音として祀った観音堂。

Img_7649由来

Img_7650虎姫観音

ちょっときつい顔立ちだが、なかなかの美形だ。左には弁財天とお使い姫の蛇が虎姫が暴れ出さないように守っている。

Img_7646観音堂から利根川、群馬大橋。

Img_7651前橋城の天守閣は虎姫観音堂のあたりにあったそうだ。

暴れ川の「坂東太郎」利根川に翻弄され続けた城。

Img_7656前橋城の土塁跡(県警本部の北側)

古くは厩橋城と呼ばれた、関東七名城の一つ。

Img_7662前橋城址之碑

明治41年に土塁上に建てられた。

Img_7666東照宮

徳川家康を祀る。前橋公園内の意外とこじんまりとした神社だった。

Img_7670臨江閣別館

明治43年一府十四県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築物。

Img_7669説明板

Img_7672本館・渡り廊下・茶室(右)

明治17年に群馬県や前橋の迎賓館として建てられた。

Img_7671説明板

Img_7674明治天皇が休憩した部屋

Img_7679別館から日本庭園、渡り廊下、本館

Img_7685石川橋から広瀬川

水量が多く、流れが速く、水面が高い。大雨が降ると岡山県の佐用川みたいに氾濫しそうに見えるが、大丈夫なのだろう。

Img_7689雷電神社

Img_7692梅が橋(広瀬川) 《地図

橋のたもとで一本の香り豊かに咲き誇る梅の木を見つけた前橋城主が、梅が橋と名づけたとも、殿さんの愛妾の「お梅の方」が橋のそばの「お梅御殿」に住んでいたからとも伝える。『前橋の伝説百話』より

Img_7695梅が橋から稲荷橋の間の通り

木陰が涼しい。

Img_7696飛石稲荷神社(岩神稲荷) 

Img_7701社殿の後ろの「飛石」

10万年以上も前の赤城山の大規模な山崩れによって押し出された岩が、約2万年前の前橋台地を造った浅間山の火山泥流でここまで押されて来たものという。木々で覆われているが、周囲が約60m、高さは地上に露出した部分で10m近く、地下にも数m埋まっていると推定されている。

石工がこの大岩にノミを打ち込んだところ、真っ赤な血が噴き出たという「岩神の飛石」の話もある。

Img_7707説明板

Img_7714反対側から

下に小さな稲荷が祀られている。

Img_7712ミニ稲荷 

Img_7730鎌倉坂 上細井町の県道76号の鎌倉橋交差点の一つ南の交差点から北東方向に上る坂。 

正嘉2年(1258)諸国を巡っていた旅僧姿の北条時頼が善勝寺を訪れ、住職の覚山和尚と語り合った。時頼は庭先に今を盛りに咲き誇る二本の桜を目にとめ、「海もなく 磯べも遠きこの里に 何れのあまが 植し塩釜」と詠んで覚山和尚に贈り、立ち去った。この歌から旅の僧が時頼であることを知った和尚は引き返してもらおうと小僧に後を追わせた。今の鎌倉坂で追いついた小僧がその意を告げると、時頼は「もう鎌倉へ着いた。帰るには及ばない」といい、舟で大利根を渡って行った。」という。以来この坂を鎌倉坂と呼ぶようになった。『前橋の伝説百話』より

この時代には利根川が近くに流れ、水利に富んだ地形や景色が鎌倉に似ていたのだろう。今は鎌倉の風情は感じられないが。

善勝寺の塩釜桜はとうに枯れてしまったが、本家、塩釜市の塩釜神社にはちゃんと残っている。五月上旬に満開となる八重桜で、国の天然記念物だそうだ。

Img_7732坂上方向

Img_7733坂下方向

Img_7734道標か?

坂の途中の分岐 「神明」と「端気(はけ)」とあるようだが。坂上は小神明町で、神明宮があり、その南が端気町だ。

Img_7736鎌倉坂バス停から坂下方向

Img_7743大国主神社 《地図

Img_7744道進坊坂①(坂上方向) 県道76号の上沖町交差点から端気町へ北東に上る。《地図

端気町と上沖町をつなぐ坂で、昔、道進坊という偉い坊さんがこの坂で倒れて死んだというが詳細は分からず。

坂下近くに道祖神、坂上に墓地があり古道の面影が残っている。この坂が一番ふさわしいようだが、自信はない。

Img_7747道祖神(坂下近く)

Img_7748坂上方向

Img_7750坂下方向

左側は墓地

Img_7753道進坊坂②  ①の坂の途中を東西に上る坂。《地図

Img_7770日枝神社(善勝寺の前)

周りに木が無く、ポツンと裸で殺風景で、何となく可哀そうな感じだ。

Img_7763善勝寺

「鎌倉坂」の由来話に登場する寺。

Img_7766鉄造阿弥陀如来座像(国指定重要文化財)

Img_7773道進坊坂③(坂下方向) 県道76号の端気町交差点から北に端気町に上る坂。《地図

Img_7774坂上方向

Img_7778坂下方向

Img_7784上泉郷蔵 《地図

寛政8年(1796)に天災、飢饉などの備えとして建てられた穀物貯蔵用の土蔵。

Img_7782説明板

Img_7786剣聖上泉伊勢守

上泉郷蔵あたりは上泉城の本丸、二の丸跡。上泉伊勢守は柳生新陰流の祖で、柳生但馬守宗厳(むねよし)が3度試合に敗れ、師事したほどの無双の兵法者だった。

Img_7797説明板

Img_7796_2周辺図

Img_7806赤坂(坂上方向) 上毛電鉄赤坂駅の北側を北東に上る県道3号。

傾斜は緩いが長い坂。昔は赤土のむき出した坂だったのだろう。

Img_7808

坂下方向

Img_7812上毛電鉄赤坂駅

二両編成の電車

2009年8月20日

Img_7563白河駅(JR東北本線)・・・敷教舎跡・・・白河宿本陣跡・・・県道11号(御斎所街道)・・・龍蔵寺・・・鹿島神社・・・宗祇戻し・・・谷津田橋(谷津田川)・・・感忠銘碑・(白川城跡)・・・搦目(からめ)橋・善知烏(うとう)坂跡・・・谷津田川遊歩道・・・八竜神橋・・・県道76号(南湖公園線)・・・合戦(こうせん)坂・・・県道76号・・・南湖公園・・・棚倉街道・・・花見坂・・・白河第一小学校・・・友月山公園・・・新橋(谷津田川)・・・玄仙小路・・・(白河駅)・・・小峰城跡公園・・・白河駅

 郡山に一泊して白河に戻り、半日、市内の坂道散歩をする。白河駅から旧奥州街道を進み、そのまま直進して県道11号に入る。この通りにも古い商家が残っている。宗祇戻しの碑などが立つ辻を過ぎ、谷津田橋を渡ると右上の崖に感忠銘碑が刻まれている。このあたりになると人家はまばらで歩道もなく、車がスピードを上げて往来しているので歩きにくい。

 搦目橋あたりから上っているはずの善知烏坂は雑草に覆われ行き止まりの道になっている。地図にはしっかりと道筋が載っているのだが。谷津田橋まで戻り、川沿いの遊歩道を八竜神橋まで行き、県道76号を少し上ると道標が立つ辻から南へ合戦坂の長い上り坂となり、坂上から引目橋へと下って行く。この坂を往復したが、坂の由来話に出てくる味方不動、味方不動清水を見つけられなかった。今はもうないのかも。2つの坂であてがはずれ少々がっかり。

 県道76号を上り南湖公園を半周して、棚倉街道に入るとすぐに右へ花見坂が上っている。坂上を進むと白河第一小学校で、ここから下る坂がなかなかいい(上の写真) 名前はついていないようだが。下って友月山公園から新橋を渡り、再び奥州街道に出て、玄仙小路を通り白河駅脇のガードをくぐって小峰城跡を見学。下の広場で小休止して、白河駅から鈍行を乗り継ぎ帰路についた。

  【地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_7444敷教舎跡(本陣跡の手前)

寛政11年(1799)に松平定信が建てた庶民の学校、「郷学所」

Img_7443説明板

Img_7446白河宿本陣跡 《地図

Img_7445説明板

Img_7454龍蔵寺参道

Img_7453いぼなし鐘

普通の鐘の上部にある、いぼのような突起「乳」がなく、梵字が記されている。郡山市の如宝寺にもあった。

Img_7452説明板

Img_7455年貢町会館 

Img_7459上の片野屋

老舗の呉服店。店舗は昭和30年代に建てられた比較的新しいものだが、白壁、瓦が古さを感じさせる。

Img_7463油屋須釜醸造

味噌、醤油を醸造している店

Img_7470宗祇戻しの碑(説明板の左)・芭蕉句碑(説明板の右)・道標・石地蔵が並ぶ分岐点  

「宗祇戻し」と同じような話が秩父の「西行戻しの坂」にある。「秩父巡礼道-1」に記載。

Img_7466_2「宗祇戻し」の由来話①(説明板)

由来話②:「おくの細道」の旅で芭蕉に随行した曾良の旅日記には、「宗祇もどし橋 白河の町の右、かしま行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉ふ時、一家衆寄合、かしまにて連歌有時、難句有之。いずれも三日付る事不成。宗祇旅行の宿にて被聞之て、其所へ被趣時。四十計の女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右の由しかじか。女「それは先に付侍りし」と答て失せぬ。「月日の下に 独りこそすめ  (付句) かきおくる 文のをくには 名をとめて」 と申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝。と言うものだが、①の方が分かりやすく面白い。 

Img_7483感忠銘碑 《地図

南朝方の結城宗広、親光親子の忠烈を伝える碑。碑文が刻まれた断崖の下にも説明板があるようだが、ここから先は崩落の危険があるためか立ち入り禁止。

Img_7481碑文

Img_7501白川城(搦目城)跡(感忠銘碑の上部の搦目山)

南朝方の結城氏の拠点

Img_7480説明板

Img_7490善知烏坂跡? 地図には道筋があるのだが、雑草に覆われて廃道のようだったが。

台地からに水鳥の善知烏の口ばしのように川の出崎に伸びていた坂だったのだろう。各地にある「うとう坂」の一つ。「烏頭坂」・「鵜頭坂」・「有藤坂」・「宇都布坂」、「うとう」から転訛した「宇土坂」・「歌坂」・「謡坂」・「御塔坂」・「おと(音)坂」など数多い。ここの坂上あたりの字名も「謡坂深沢」という。

滝沢馬琴は、「陸奥の方言に、海浜の出崎を、うとふという」とし、言語学者の新村出は、「ウトウはアイヌ語で「突起」を意味する語であり、この鳥の嘴が突き出ているので「ウトウ」と呼ぶようになった」とする。青森県には善知烏神社がある。『うとう坂表

Img_7488これ以上は前に進めず。

Img_7489前方の搦目橋へと下っていた坂なのだろう。

Img_7493搦目橋のたもとから

Img_7496近くに馬頭観音などが集められている。

Img_7497「・・・・・跡」とある。

Img_7506谷津田川(谷津田橋)の下

左に魚道が作られいる。

Img_7504説明板

Img_7509谷津田川沿いに遊歩道を八竜神橋に向う。

Img_7519合戦坂下

Img_7521合戦(こうせん)坂(坂上方向) 市営斎場の東側を南東に上り、引目橋(藤野川)へと下る坂。 

「天正7年(1579)5月17日に侵攻してきた常陸の佐竹義重軍をこの坂を通って迎え撃った白河の結城義親勢は、激戦の末に劣勢となり引目橋まで退いた。この時、白河軍の背後から14、5歳の少年二人が躍り出て、獅子奮迅の活躍で佐竹軍を蹴散らした。少年たちは不動明王の使徒の、矜迦羅童子(こんがらどうじ)と制咤迦童子(せいたかどうじ)と名乗り姿を消した。以来、この坂は「合戦坂」と呼ばれ、路傍に「味方不動」が祀られ、そこに湧く「味方不動清水」は、今も絶えずに残っている」と言うが、味方不動、味方不動清水は探しても見当たらず。 『みちのく怪道風まかせ』に味方不動の写真が載っている。いつ頃撮った写真だろうか。

右に「戊辰戦死之碑」が立つが、むろんこの「合戦」とは関係がない。

Img_7523戊辰戦死之碑

Img_7522_2説明板

Img_7525坂下方向(左は白河斎場)

右の民家の傍らに味方不動、味方不動清水がある(あった)らしい。

Img_7526坂上方向

Img_7531坂上から引目橋へと下って行く。

ここの地名は「合戦坂」

Img_7543南湖公園

享和元年(1801)、白河藩主松平定信によって造られたわが国最古の「公園」だそうだ。

Img_7547南湖

Img_7552蛇も散歩中か。かなり長い蛇で薄いきれいな色をしていた。生きているように見えたが。

Img_7556花見坂(坂上方向) 御幸通り(棚倉街道?)から右に入り、北から北東方向に上る坂。 

Img_7557坂上近くで、右(東)に入るのが月見坂のようだ。

桜の木か

Img_7567蕎麦屋の大福家

Img_7592玄仙小路の旧家

Img_7593標柱

Img_7575小峰城(白河城)跡(前御門から三重櫓) 

南北朝の興国元年(1340)に結城親朝が小峰ケ岡に築いたのがはじまり。

Img_7574説明碑

2009年8月17日

Img_6650白河駅(東北本線)・・・白河宿・・・皇徳寺・・・国道294号・・・白河宿本陣跡・・・(東北本線)・・・津島神社・・・田町大橋(阿武隈川)・・・向寺の坂・・・三柱神社・・・聯芳(れんぽう)寺・・・会津街道分岐・仙台藩士戊辰戦没之碑・・・旧道・遊女志げ女の碑・・・国道4号・・・旧道・大清水(跡)・・・高橋川・・・国道4号・安珍堂・・・旧道・根田宿・・・岩崎橋(栗ケ作川)・・・国道4号・・・旧道・愛宕神社・・・根渡神社・・・国道4号・・・旧道・小田川宿・・・小野薬師堂・・・宝積院・・・馬橋・・・(東北自動車道)・・・八幡神社(岩窟切岸城址)・・・夫婦坂・武光(たけみつ)地蔵・・・太田川宿・・・常願寺・・・愛宕神社・・・新池・・・(国道4号)・・・踏瀬(ふませ)宿・・・慈眼寺・・・踏瀬松並木・五本松並木・・・卯右衛門茶屋跡・文七茶屋跡・・・五本松橋(あぶくま高原通り)・・・七曲り峠・七曲り坂・・・大和久(おおわく)宿・・・山王寺・・・執心地蔵尊・・・中畑新田宿・・・幸福寺・・・(県道44号)・・・矢吹宿・・・大福寺・・・矢吹神社・・本陣跡・・・北町地蔵尊・・・国道4号・・・旧道・久来石(きゅうらいし)宿・・・熊野神社・笠石宿・・・宝泉院・・・笠地蔵堂・・・北原稲荷・・・鏡石駅(東北本線)

 今年の東北は梅雨明けも、盛夏もなくこのまま秋を迎えるのだろうか。東京は残暑真っ盛りというのに、白河駅を降りた途端に風の違いを感じた。奥州街道を白河宿から二本松宿までの坂道散歩だが、このくらいの暑さなら何とかなりそうだ。手始めに皇徳寺に小原庄助さん(墓)を訪ね、街道を北に出発する。

 阿武隈川を渡り、だらだらと向寺の坂を上って下り、戊辰戦争の傷跡の碑、大清水跡を見ながら国道4号に出ると小高い所に「安珍生誕之地」・「安珍之里」の碑が立っていて、安珍堂にはやさしく気の弱そうな安珍さんが座っている。根田醤油の前から旧道の根田宿に入る。人影、車もない閑静な家並みを抜け、国道4号に出てしばらくしてまた旧道に入ると小田川宿で入口に小野薬師堂がある。ここも静かな通りで、立派な家並みが続く。家並みが途絶え、東北自動車道が左手に近づくとガードの所に八幡神社の石柱が立っている。側面に「岩窟切岸城址」とある。ガードをくぐって行って見ると社殿の背後が岩窟切岸城址のようだが説明板もないので詳細は分からず。

 旧道に戻って田園の中を進むと夫婦坂の上りとなる。途中、左手に武光地蔵がどっしり座っている(上の写真は武光地蔵の下あたりから坂下方向)。太田川宿へ下り、細い石段を愛宕神社へ上る。やっぱり暑い。社殿(小祠だった)からの眺望を期待したが木々が繁っていまいちだった。新池の手前には民家の裏側を通る未舗装の旧道が残っている。上り下りを繰り返しながら新池の前を通り、国道4号を渡り踏瀬宿へ入ると一部に松並木が残っている。茶屋跡前からあぶくま高原通りを越えるとすぐに七曲り峠で、七曲り坂となって大和久宿へと下って行く。右手に東北本線が近づき、町並みもだんだん賑やかになって矢吹宿へと入る。ここは栄えた宿場だったようで見るべきものが多かった。

 矢吹宿の北の北町地蔵から国道4号に出てしばらく進み、左に旧道に入ると久来石宿できれいで立派な家並みが続いている。旧道は国道4号を渡り、熊野神社あたりから笠石宿となる。笠地蔵は民家の脇にある。うるさく吼える犬を怒鳴りつけ、堂内の笠地蔵(実際は石を乗せた板碑)をすき間から見るが暗くて見えない。写真を撮って見てなるほどと納得。ミニ風車の立つ鏡石駅で今日の街道歩きの終わりとした。

  【ルート地図】  

Img_6554_2小原庄助の墓(皇徳寺境内の羅漢山人の墓の隣り)

辞世が、「朝によし昼になほよし晩によし 飯前飯後その間もよし」で、戒名は「米汁呑了信士」 呑み了(お)えたなら徳利は寝かせればいいものを。この墓の石を削って飲むと下戸も上戸になれるとか。

旧東海道の箱根の小枯木坂の坂下には、「雲助徳利の墓」がある。『箱根の坂-2』(2008年4月22日)に記載。 

Img_6552_2説明板

Img_6549_2本家富川屋染物店

老舗通りに染物屋が数軒並んでいる。

Img_6550_2大野屋染物店

Img_6559_2本陣芳賀家跡 《地図

後に福島県立病院へと発展する白河医術講義所(白河県立病院)跡

Img_6558_2説明板

Img_6562_2萩原朔太郎の妻の生家(本町54)

清酒「白陽」の大谷酒造

Img_6561_2説明板

Img_6564_2岩淵悦太郎生家跡

酒造業の「岩淵屋」で生まれた国語学者。今はお茶屋になっている。

Img_6565説明板

Img_6566_2白河だるまの「渡辺だるま製作所」

白河だるまは、今から約360年前の城主丹羽長重の頃から旧正月14日の「市神祭」で、縁起物として売られてきた。

Img_6571_2向寺の坂(坂上方向) 田町大橋を渡り、北方向に緩やかに上る奥州街道。 

聯芳寺の向いの坂か、聯芳寺へ向う坂の意か?

Img_6575聯芳(れんぽう)寺

枝垂れ桜が見事な寺

Img_6577_2坂上から会津街道との分岐の女石へ下る。旧道は切通しの上の方を通っていて、地蔵や回国供養碑が残っているそうだ。

Img_6580国道4号の手前で右へ旧道に入る。

Img_6581_2仙台藩士戊辰戦没之碑 《地図

Img_6582_2説明板

Img_6583_2遊女志げ女の碑(説明板の前)

戦争の犠牲となるのはいつも弱い者だ。

Img_6584_2説明板

Img_6586_2大清水跡あたり

Img_6587_2そばや「大清水」の手前

「上水道念」?、ほかに馬頭観音が幾つか草むらに半分埋まっている。そばやの前には道標が立っているというが見逃した。

Img_6598安珍堂

安珍清姫」物語の安珍は当地(根田)の生まれ。安珍の墓は堂の下を西に行った東北自動車道をくぐった所にある。

Img_6592説明板

Img_6596_2安珍像

もとは道成寺にあったもの。女の執念に焼き殺されても仕方ないような優男(やさおとこ)の像だ。道成寺は『熊野古道(紀伊路⑧)』に記載。

安珍歌念仏踊り(奥州白河歌念仏踊)」は今でも踊られているようだ。【YouTube】

Img_6600根田醤油合名会社(根田宿の入口)

創業200年の老舗、簡易郵便局も兼ねている。

Img_6609愛宕神社

石段が崩れかけていて危険なのか、鉄の階段には施錠してあり上れない。

Img_6612根渡神社

ひっそりとした佇まいでいい雰囲気だが、薮蚊に食われ長居はできない。

Img_6617小野薬師堂(小田川宿入口)

小野小町伝説の地で、奥州街道を往来する旅人が参拝し、道中の無事、安全を祈願したという。

Img_6620小田川宿の町並み

豪勢で、端正な家並みが続く。

Img_6627旧家

Img_6645八幡神社入口

「岩窟切岸城址」とある。東北自動車道をくぐって向う。

Img_6640八幡神社

Img_6643岩窟切岸城址 

社殿の後ろに垂直に切り削られた崖が切岸で、その上に中世の城砦があったのか。鎌倉の大切岸を思い出した。

Img_6648夫婦坂(坂上方向) 白河市と泉崎村の境あたりの緩やかな坂。 

上って下る向き合う坂で夫婦坂か?

Img_6651武光(たけみつ)地蔵(夫婦坂の途中を左側に入った石段上)

仙台藩の居合い抜きの達人の侍が、奥州街道を急ぎ江戸に向う途中、夜更けの夫婦坂にさしかかった。すると前方に妖しい女の影が出た。侍は一刀のもとにこれを斬り捨てた。江戸からの帰り、再びここを通ると、道端に二つに切断された石地蔵が転がっていたという。土地の者はこの石地蔵を斬りつけた刀が竹光だったので「武光地蔵」とも、「化け地蔵・首切り地蔵・二身堂地蔵」とも呼んだ。近年まで、そばに切断された下半身があったという。

これは地蔵像ではなく薬師像という土地の人もいるそうだが、どう見ても地蔵にも薬師にも見えず、田舎の人の良さそうなお百姓のおっさんだ。

Img_6654坂上からも緩やかに下って行く。

Img_6659太田川宿の町並み

正面は愛宕神社の丘

Img_6665愛宕神社 《地図

急で細い石段を上るとこんな小さな社だった。

Img_6667石段の途中から

Img_6672旧道を上る

左上に石造物が並ぶ。

Img_6674馬頭観音など

Img_6678池沿いの旧道

Img_6681下って新池から国道4号を横断して踏瀬宿へ

Img_6682新池 《地図

新池の手前には民家の裏側を通る未舗装の旧道が残っているが写真を撮り忘れた。

Img_6685踏瀬宿入口の小社

Img_6688踏瀬(ふませ)宿

検断と問屋を兼ねていた箭内家。現在は白い土蔵と門柱が残る。

Img_6700五本松並木

踏瀬松並木から続いている。

Img_6695説明板

Img_6709卯右衛門茶屋と文七茶屋茶屋跡

軒を連ねて、旅人の休み処として繁盛してきたが、明治の中頃の鉄道開通により街道がさびれて店じまいとなった。道はあぶくま高原道路の上を越し、七曲り峠から七曲り坂を蛇行しながら下って行って大和久宿へ入る。

Img_6707説明板

Img_6710五本松橋であぶくま高原通りを越えるとすぐに七曲り峠だ。

Img_6713七曲り峠(富士見峠)

峠といってもたいした高さではない。

Img_6718七曲り坂 峠からの下りの方が長いが傾斜はゆるい。 

Img_6721大和久(おおわく)宿の町並み

Img_6728山王寺の「臥竜の松」

樹齢200年という黒松。松並木は赤松で、黒松は海岸に多く珍しいらしい。

Img_6730執心地蔵尊

Img_6732右側に大和久宿跡とある。

左側は、「幾星霜・・・・」後は読めず。由来が書かれているのではないようだが。

Img_6739幸福寺

左は「しあわせ観音」

Img_6744矢吹宿の町並み

Img_6751矢吹神社

Img_6754_2大木代吉本店

慶応元年(1865年)創業の造り酒屋。店先に代表銘柄の「自然郷」の幕を垂す。

Img_6756大正ロマンの館

昭和40年代まで産婦人科の建物として使用されていた。夜はライトアップされるそうだ。

Img_6755説明板

Img_6758本陣跡

門だけが残るのみ。

Img_6760会田医院の建物の中の1棟。

Img_6762北町地蔵

丸い体で、プロレスラーみたいな顔つきだ。

Img_6768久来石宿の町並み

道の両側に東側、西側の字名が残っている。

Img_6772旧家の土蔵

Img_6781熊野神社

笠石宿の入口

Img_6789笠地蔵堂 

Img_6790説明板

Img_6793笠地蔵(左)

地蔵ではなく、石を乗せた板碑

Img_6799鏡石駅

唱歌「牧場の朝」のモデルとなった岩瀬牧場が駅の東2kmほどにある。







→「
奥州街道(笠石宿→郡山宿)→「奥州街道(郡山宿→二本松宿)に続く

2009年8月3日

多磨駅(西武多摩川線)・・・人見街道(都道110号)・・・調布パブテスト教会・・・近藤勇生家跡・近藤神社・・・龍源寺(近藤勇の墓)・・・御狩野橋(野川)・・・大坂・・・(東八道路)・・・大沢八幡神社・・・東八道路・・・二塚神社・・・天文台通り・・・長久寺・・・天文台の坂・国立天文台・・・天文台下交差点・・・古八幡神社・・・羽沢小学校・・・八幡坂(三鷹市と調布市の境)・・・(調布市)・ひきずり坂下・・・小坂下・御塔坂上・・・深大寺通り・・・仁王坂下・・・城山の坂下・・・多聞院の坂・・・あおなみさんの坂・青渭(あおなみ)神社・・・法性院・・・絵堂橋(中央自動車道)・・・蛇久保の坂上・・・学校の坂上・病院坂上(上ノ原五差路)・・・(三鷹市)アカドッケ・中仙川橋跡・・・(調布市)・向台の坂・・・仙川駅(京王線)

  *八幡坂から病院坂と向台の坂は「調布市の坂」に記載。

  【地図】  

Img_6438近藤勇生家跡(調布市) 

産湯の井戸だけが残り、近藤神社の小祠がある。

Img_6434生家の宮川家は昭和18年に軍部によって取り壊された。

Img_6432説明板①

Img_6433説明板②

Img_6436産湯の井戸

昭和18年に取り壊されてここを立ち退くまで、宮川家で生活用水として使用していた井戸。

Img_6435説明板

Img_6437近藤神社の説明板

Img_6440堅牢地神社(近藤勇生家跡の隣り)

仏教における天部の神の一つで大地を司さどる神だそうだ。

Img_6449龍源寺山門前の近藤勇像と六地蔵

Img_6445龍源寺

Img_6448近藤勇の墓(中央)

Img_6446説明板

Img_6454大坂(おおざか) 御狩野橋(野川)から北東に上る人見街道(都道110号)。

人見街道が国分寺崖線にさしかかる所の坂。大正13年頃、旧道が拡巾されたことから地元の人たちは、この坂を「おおざか」と呼ぶようになった。『三鷹市史』

Img_6455坂上方向

坂上で東八道路へ出る。

Img_6456坂下方向

Img_6465大沢八幡神社

古くは古八幡社の地にあり、元和3年(1617)に長久寺の境内に移り、大正6年に当地に移転した。

Img_6467青龍権現二塚神社

古来、雨乞いの神として崇敬されてきた神社。

Img_6470長久寺

かつては国立天文台の地にあった。

Img_6472天文台の坂(坂下方向) 国立天文台の前を北に上る天文台通り。 

大正末年、天文台完成により開通した通りで、国分寺崖線の坂で、通称名として使われている。『三鷹市史』

Img_6476国立天文台

Img_6481坂下方向

Img_6482坂上方向

Img_6484古八幡社

Img_6489八幡坂(坂上から・三鷹市と調布市の境) 

かつて坂上に八幡社があった。(上の古八幡神社とは別の八幡社)

Img_6491ひきずり坂下

エンコした車が坂下に止まっている。

Img_6497多聞院の坂(調布市)

左に多聞院、深大寺の東参道

Img_6512学校の坂上(調布市)

上ノ原小学校へ下る坂

Img_6529アカドッケ 調布市との境から北へ、東台方向へ下って上る中仙川通り。 

つつじが丘から東台へ行く坂で、往時から地元の人はこの名で呼んでいる。意味は不明。『三鷹市市史』

アカは赤土のことだろう。ドッケは何かの訛りか? 坂の形からは夫婦坂、相生坂、薬研坂に入る。調布市の向台の坂上から続く坂で、二つの坂を合わせるとWを平たくしたような形になる。

Img_6539中仙川橋跡(坂下あたり)

中仙川は調布市深大寺東町8丁目あたりを水源地とし、南東に流れ三鷹市を通り、調布市入間町2丁目で野川に注ぐ川で、調布市では入間川(埼玉県の一級河川の入間川とは別)、三鷹市では中仙川というそうだ。ここは暗渠になって今は遊歩道になっている。

Img_6525南の調布市方向

坂上で向台の坂につながる。

Img_6526北方向

坂上から中央自動車道をくぐり、都道114号へ出る。

Img_6532坂上近く

西側に中島神社、東側に東台小学校がある。

Img_6542向台の坂(調布市)

アカドッケの坂上から南に下って、上る坂。

Img_6545馬頭観音の小祠

向台の坂の坂上から南に続く坂の途中。

Img_6544風化して形が薄れた馬頭観音

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