2010年05月

2010年5月8日

三ケ日駅(天竜浜名湖鉄道)・・・三ケ日宿・本陣跡・・・釣橋川橋・宇利山川橋・・・三ケ日高校・・・華蔵寺・・・西小学校分校跡・・・板築駅跡・・・本坂の一里塚跡(72)・・・橘神社・橘逸勢の墓・本坂の関跡・高札場跡・・・鏡岩・・・椿の原生林・・・本坂峠(328m)・・・弘法水・・・嵩山(すせ)の七曲り・・・茶屋跡・・・座禅岩・・・腰掛岩・・・嵩山の一里塚跡(73)・・・堂の坂・・・挟石川(重王橋)・・・嵩山宿本陣跡・市場城址あたり・高札場跡・天神川・・・国道362号・・・長楽寺・・・長楽の一里塚跡(74)・・・弁慶首塚松跡・馬頭観音・(高井城址)・小倉橋(牟呂用水)・・・旧道・・・当古の渡し跡・当古橋(豊川)・・・当古橋公園(旧中山家跡)・・・三谷原神社・・・(三橋の一里塚跡(75))・・・寿命院・・・熊野神社・・・三明寺・・・(名鉄線)・・・スサノオ神社・・・金谷橋(佐奈川)・・・諏訪神社・(諏訪の一里塚跡(76))・・・本宮山遥拝所・・・永昌寺・・・三河国分寺跡・・・国府八幡宮・・・三河国分尼寺跡・・・桜地蔵尊・・・三河総社(三河国府跡)・・・船山古墳・・・(名鉄線)・・・追分(東海道合流点)・・・国府(こう)駅(名鉄線)

 昨日は朝から雨で名古屋競馬と名古屋市内で時間をつぶした。うって変わっての好天の中を本坂峠を越え、姫街道の西の終点の東海道との合流点、御油の追分を目指す。本坂峠を越えて嵩山宿へ下るまでの姫街道は気分がいいが、そこからの国道歩きが長く、見所も少なくいい加減疲れてきた。三河国分寺などに寄ったせいもあり、思ったより距離もあった。もう一泊浜松に泊まり、明日ゆっくりと帰るとしよう。

  【ルート地図】  

Img_6482清水呉服店 《地図

嘉永3年(1850)の創業。東側に石川脇本陣、向かいに本陣小池家があった。

 

Img_6483三ケ日宿本陣跡

 

Img_6491釣の秋葉常夜灯

鞘堂は明治14年の建造。

 

Img_6497華蔵寺の朱塗りの山門

 

Img_6499三ケ日町立西小学校日比沢分校跡

昭和25年の建築。校庭に二宮金次郎の石像が立っていた。もとは銅像だったが、戦時中に金属供出されてしまったそうだ。

 

Img_6503板築(ほうずき)駅推定地 《地図

承和9年(842)、橘逸勢が謀反を起こし(承和の変)、伊豆へ配流される途中で、板築駅で死去したという。板築駅は東海道の猪鼻駅が廃絶された時期(天長10年(833)~承和10年)に臨時に設置された駅という。所在地については異説もある。

 

Img_6508本坂の一里塚跡(72)

 

Img_6514馬頭観音

各地から集められたもので、中央は文久3年(1863)の建立。毎年3月午の日に家畜供養祭が行われる。西隣は牛馬の埋葬地だったという。

 

Img_6517周辺案内図

 

Img_6521橘神社

石段上に橘逸勢の墓と伝える石塔、娘の妙冲尼(みょうちゅうに)の孝行を称えた旌孝(せいこう)碑がある。

 

Img_6520説明板

 

Img_6526本坂の関推定地

気賀関所が設置により廃止された古関。

 

Img_6525説明板

 

Img_6528高札場跡・秋葉灯篭《地図

本坂本陣の庄屋梅藤家が左に入った所にあったようだ。

 

Img_6529説明板

 

Img_6533本坂の集落を振り返る。

国道を横切り、本坂峠への上りとなる。

 

Img_6535弘法堂

一体は金銅製というが両方とも石造に見える。

 

Img_6536説明板

 

Img_6540本坂峠へ

 

Img_6544鏡岩

東海道鈴鹿峠の鏡岩は、山賊の物見用とぶっそうだが、ここのは旅する女人の化粧用とは、さすが姫街道らしい。でも今は光っていない。

 

Img_6543説明板

 

Img_6550椿の原生林の石畳を上る。

ヤブツバキの群生地で樹齢200年以上のものもあり、見頃は1月から3月だそうだ。

 

Img_6552本坂峠(326m) 【ル-ト地図】の8

平安時代には流人の橘逸勢が、江戸時代には将軍吉宗の母の浄円院や、将軍に献上される象も通り、嘉永6年(1853)には天璋院篤姫がこの峠を越えた。姫街道は公的には「本坂通」と呼ばれていた。

 

Img_6554弘法水

峠のすぐ下に湧く。大師が杖で湧かせた湧き水かと思ったが、大師がこの水で喉を潤したんだと。

 

Img_6560通行止めの標識

三ケ日側には設置されていなかったようだったが。今さら「全面通行止」(平成22年4月22日から8月?日)なんて、もう遅いよ。そう言えば伐採の機会音がしていたか。

 

Img_6564嵩山の七曲りを下って行く。

 

Img_6566茶屋跡

こんな所に茶屋があったのとは。

 

Img_6568座禅岩

こんな街道沿いで座禅をする人がいたの? 形だけの話だろう。

 

Img_6577嵩山の一里塚跡(73)

まだここは山中だ。

 

Img_6580姫街道の案内板

 

Img_6581堂の坂を下って嵩山宿へと入って行く。

 

Img_6591嵩山宿の家並み 

 

Img_6594旧家

 

Img_6597案内図

この先の市場城址、高札場跡には説明板などはなかった。

市場城址は室町末期の西郷氏の居城で、永禄5年(1562)に今川氏により落城。自由が丘団地の西側に土塁の一部が残るそうだ。

 

Img_6600本陣跡

低い塀は本陣夏目家の遺構か?

 

Img_6609長楽寺

吉田への分岐点にあったと思われる地蔵道標が境内の石仏群の中にあり、「右ごゆ道 左よし田道」と刻まれているそうだ。

 

Img_6611_2常夜灯と道標(和田辻東)

道標には「右豊川」「左豊橋」とある。

 

Img_6615長楽の一里塚跡(74) 《地図

この先の三橋の一里塚跡(75)(三谷原神社と寿命院の間か)、諏訪の一里塚跡(76)(諏訪神社の西あたりか)は痕跡なしで位置不明。

 

Img_6619弁慶首塚二本松碑(右)と馬頭観音(左)

小倉橋の手前(右側)

 

Img_6621弁慶首塚二本松の碑

「ここに弁慶の首塚が有り、径七尺の二本の松の大木があった。一本は明治26年4月に、もう一本は明治32年9月に倒れてしまった。それを惜しんで地元の有志が明治34年7月に碑を建てた」(要約)

弁慶の首塚の由来は何なのか?

 

Img_6622馬頭観音

「水難除」とある。大正12年に三ヶ日、遠州、牛久保、豊橋、豊川、嵩山などの交通運輸関係者が建立したようだ。馬頭だけで観音像は彫られていない。

 

Img_6626高井城址(馬頭観音の道路向い側) 【ル-ト地図】の9

南北朝時代、南朝方の忠臣高井主膳正が築いたという。堀跡、土塁跡が残るそうだ。城之内という地名も残っている。

 

Img_6631国道と分かれ旧道に入り、当古の渡し跡へ

 

Img_6635当古の渡し跡あたり(当古橋から) 

正面の山は三河国一宮の砥鹿神社の神体山の本宮山(789m)で山上に奥宮がある。

 

Img_6640当古橋公園 《地図

当古村の庄屋で、当古の渡しの権利を持っていた中村家の跡地。中村家は市場城主だった西郷家の家系のようだ。

 

Img_6637説明板

 

Img_6647熊野神社

 

Img_6648由緒

 

Img_6656三明寺三重塔(国指定重文)

一層、二層が和様で、三層は反りのある禅宗様。なるほど言われて見れば納得。

 

Img_6653説明板

 

Img_6659三明寺本堂

堂内の宮殿が国の重文。

 

Img_6658説明板

 

Img_6663自動車修理販売店とは見えないだろうな。

 

Img_6669変わった造りの塔。

世界神道教だそうだ。

 

Img_6675本宮山遥拝所

本宮山(789m)山頂の三河国一宮砥鹿神社奥宮の遥拝所

 

Img_6676旧家が崩れてしまいそうだ。

 

Img_6690三河国分寺跡

正面の本堂がかつての国分寺の金堂跡地。

 

Img_6692三河国分寺全体図

 

Img_6691説明板

 

Img_6682国府八幡宮

 

Img_6705三河国分尼寺伽藍配置図

 

Img_6694正面は中門と回廊の一部(復元)

 

Img_6703説明板

 

Img_6706南大門跡から中門、その後ろが金堂跡、講堂跡

 

Img_6712桜地蔵尊

由来は?

 

Img_6716三河総社 《地図

このあたりが三河国府跡で、東隣の曹源寺が国庁跡

 

Img_6720船山古墳 《地図

5世紀中頃の築造の全長94mの前方後円墳だが、無残にも前方部も後円部も削り取られている。

 

Img_6726名鉄の線路を越え、国道を渡り御油の追分へ

 

Img_6730御油の追分(東海道との合流点) 【ル-ト地図】の10

右へ曲がれば東海道御油宿、左に曲がれば御油の一里塚跡

 

Img_6735御油の一里塚跡(76)

2010年5月5日

磐田駅バス→加茂川・・・東海道見付宿・姫街道追分・・・河原橋・・・一本松跡碑・・・かぶと塚公園・兜塚古墳・・・京見塚古墳・・・水汲坂・・・一言坂(立場跡・古戦場跡・琴平神社)・・・一言観音・知恩斉・・・彷僧川・・・アミユーズ豊田ポケットパーク・・・妙法寺・・・誓渡院・・・行興寺(熊野の長藤)・・・池田の渡し歴史風景館・・・池田の渡し跡・・・粒見堂?・天白神社・・・新天竜川橋・・・東海道と合流・中野町・・・姫街道追分・・・普伝院(千体堂)・・・秋葉道道標・・・柏木橋(旧松小池川跡)・・・半僧坊道標(里程石)・・・長泉寺・・・八幡神社・・・池田道分岐・・・安間川・・・市野宿・熊野神社・・・八丁とうも・・・長福禅寺・・・小池の一里塚跡(65)・・・大養院・・・江原橋・・・(遠州鉄道)・(二俣街道)・旧秋葉道分岐・・・(国道152号飛龍街道)・・・馬乗場跡・・・旧五枚橋跡・五枚橋(馬込川)・・・宇藤坂・・・俊光将軍社・・・大菩薩坂・・・欠下城址あたり・・・常夜灯・・・道標・県道261号・二重坂・・・一里塚橋交差点・追分の一里塚跡(66)・・・三方原追分(元追分交差点)

 東海道見付宿の追分から、昨日歩いた三方原追分まで快晴の下を行く。ちょうど行興寺の「熊野の長藤祭り」でいいタイミングだった。天竜川を渡り東海道と合流し、中野町を抜け、安間の一里塚跡の手前で、姫街道は北に向かう。市野宿には宿場の名残りは無い。宇藤坂の旧道あたりには昔の面影が少し残っているか。

 昨日、今日の道筋は車の多い市街地の通りで、あまり面白みがある街道歩きとは言えなかった。明日は三方原追分から浜名湖の北の気賀宿、引佐峠、三ケ日宿へと進んで行く。宿場風情も残り起伏もあり、変化に富んだ姫街道となるだろう。

  【ルート地図】  

Img_5882見付宿の東海道との追分 【ル-ト地図】の1

直進する細い道が姫街道、左に曲がるのが東海道。

 

Img_5896兜塚古墳

5世紀頃築造の直径80mの円墳。戦時中に古墳上に塹壕が掘られて墳形は崩れている。ここは中部129部隊跡。

 

Img_5893説明板

 

Img_5914京見塚古墳

5世紀中頃築造の直径47mの円墳。

病によりこの地に移り住んだ戒成皇子(桓武天皇の第四皇子)が、塚の上から京を偲んだため、「京見塚」と呼ばれるようになったという。周辺には古墳時代後期の群集墳や埴輪焼成窯、弥生時代の方形周溝墓がある。

 

Img_5908説明板

 

Img_5918水汲坂 南東に上る坂。《地図

台地から下の低地へ水を汲みに行く坂だったのか。

 

Img_5920坂上方向

 

Img_5928一言坂(坂下方向) 東方向に上る坂。【ル-ト地図】の2

 

Img_5937坂下方向

 

Img_5926一言坂の戦跡碑(国道沿い)

徳川家康と武田信玄の戦場跡。この後、家康は三方原の合戦で大敗を喫する。

 

Img_5936_2一言坂の戦い・姫街道説明板

 

Img_5927国道1号の(新)一言坂

 

Img_5944一言観音堂(左)・知恩斉(右) 《地図

もとは一言坂にあった。

 

Img_5947一言観音

これも家康にゆかりの観音。家康が「戦勝」の一言を祈願したとか。中遠昔話『一言観音』 

左は一言地蔵か?

 

Img_5951豊田ポケットパーク

熊野(ゆや)御前の物語』の第5場

 

Img_5949物語

 

Img_5954ポケットパークに置かれている物語の石柱。

第3場は東海道を歩いている時に寄った若宮八幡神社にある。

 

Img_5972行興寺  

熊野御前ゆかりの寺で、「熊野の長藤」は国と県の天然記念物。今日は「熊野の長藤祭り」、「熊野御前例祭」で参拝客、見学客が多く出店も並んでいる。

 

Img_5970由緒

 

Img_5964熊野(ゆや)の長藤

 

Img_5969説明板

 

Img_5960行興寺は鎌倉時代創建の西法寺跡

 

Img_5977池田の渡し歴史風景館

 

Img_5975池田の渡し説明板

 

Img_5982池田の渡し跡あたり 【ル-ト地図】の3

今は渡し船を待つ旅人ではなく、熊野の長藤を見に来た人たちの車で一杯。

 

Img_5983杉田屋

昔は「どじょう汁」が名物だったようだ。

 

Img_5990天竜川渡船場跡碑

 

Img_5993新天竜川橋 《地図

 

Img_5998明治から昭和にかけては木橋で渡っていた。

 

Img_5996中野町の道筋①(下が北)

 

Img_5997②中野町を抜け、東海道安間の一里塚跡(64)の手前から右(北方向)に姫街道は分岐する。

この間は『東海道(見付宿→浜松宿)』に記載。

 

Img_6018ここで東海道と分かれ北進する。(安間の一里塚跡(64)の手前)《地図

 

Img_6017説明板

 

Img_6020普伝院

天竜川沿いの戦の死者の供養のために、村人が彫った千体の木彫仏を安置して姫街道沿いに建立した千体堂が、この寺に移されている。

 

Img_6024秋葉道道標(嘉永元年(1848))

右の民家の植込みの中。

 

Img_6032常夜灯 《地図

左奥に馬頭観音を安置する長泉庵。

この先の八幡神社の少し先が、「池田の近道」分岐だが、天竜川との間は浜松インターチェンジ周辺の倉庫群により旧道の道筋は失われている。

 

Img_6044奥山半僧坊(方広寺)道標(里程石・五里十四町)

明治14年の山林大火の際に焼けなかったことから、方広寺の鎮守の半僧坊の信仰が全国に広まった。姫街道沿いには多くの半僧坊道標がある。 

 

Img_6046市野宿の家並み 《地図

斉藤本陣は現存せず、旅籠や問屋場などは不明という。江戸時代の後期には浜松宿起点の道筋が姫街道の主流となり、宿場の機能は失われていった。

 

Img_6054熊野神社

 

Img_6060八丁とうも

「とうも」は、水の張られた田面のこと。田んぼの間を直線の八丁縄手道だったのだろう。

 

Img_6069小池の一里塚跡(65) 

左の看板の下

 

Img_6066石碑と説明板

 

Img_6070大養院

 

Img_6090馬乗場跡

この先に馬込川がある。

 

Img_6093旧五枚橋跡

現在の五枚橋の下流50mほどにあった。

 

Img_6097今は五枚橋を渡り、(新)宇藤坂となる。

 

Img_6100宇藤坂(坂上方向) 【ル-ト地図】の4

旧五枚橋からここへ通じていた。このあたりの地名による坂名。昔は有刀ともいわれたようだ。ここも各地にある「うとう坂」と同じで、馬込川まで延びた「善知鳥(うとう)」の嘴のような地形で、この地名となったのでは。『うとう坂表

 

Img_6103県道(新宇藤坂)で分断されているが、石段を上りさらに上る。

 

Img_6108坂上方向

 

Img_6111旧俊光(としみつ)将軍社 《地図

坂上田村麻呂の子の俊光を祀るのか? 明治40年に有玉神社に合祀され、小祠のみが残る。ラブホテルの隣で肩身が狭まそうだ。

この付近で縄文の土器片、石器類が出土し、奈良・平安時代の掘立柱建築物跡も8棟見つかった。古代の役所跡とも推定されるそうだ。

 

Img_6117大菩薩坂(坂下方向) 南西に上る坂 《地図

元亀3年(1572)三方原の合戦の際に、武田信玄が欠下(かけした)城南側の大菩薩坂を上り、大菩薩山に陣を構えたとの記録があるそうだ。

 

Img_6118坂下方向

 

Img_6123坂下

正面の東名高速のあたりが、欠下城跡。

 

Img_6126坂上方向

右に坂標

 

Img_6134道標(天保3年(1832))

「右きが かなさし 左庄内道」と刻むそうだ。浜松市の姫街道沿いに残る道標では最古のもの。

 

Img_6136二重(ふたえ)坂 《地図

北西に三方原台地へ上る県道261号。坂名の由来不明。

 

Img_6139追分の一里塚跡(66) 

 

Img_6141説明板

 

Img_6143国道257号との交差点が昨日歩いた浜松宿から来る姫街道との追分(元追分交差点)。ここで合流し、姫街道は細江、三ケ日へと向かう県道261号。

右へ曲がれば、金指、奥山半僧坊、鳳来寺へといたる道筋(金指街道)





→「
姫街道③(三方原追分→気賀宿→三ケ日宿)」に続く

2010年5月4日

浜松駅(東海道線)・・・東海道・浜松宿・姫街道分岐(連尺交差点)・国道257号・曳馬坂・蓮華寺・心造寺・五社神社・・・侍屋敷跡あたり・・・名残番所跡あたり(鹿谷緑地)・・・真向坂・・・三社神社・・・犀ケ崖古戦場跡・宗円堂・・・静岡大学・・・大正坂・・・銭取バス停・・・段子川橋・・・小豆餅銭取本舗・・・権現様跡・・・三方原追分(元追分交差点)

 篤姫も象も通った姫街道を歩く。姫街道は東海道の脇往還の一つで、見付宿(または浜松宿)から東海道と分かれ、天竜川右岸の市野宿、浜名湖の北の気賀宿、三ケ日宿、嵩山(すせ)宿を通り、御油宿で東海道と合流した。見付宿からは約62kmの距離で、江戸時代中期以降は浜松宿を起点とする方がよく通られるようになったという。

 姫街道は江戸時代後期から呼ばれた俗称で、公的には本坂通という。姫街道と呼ばれた由来には諸説ある
 引佐(いなさ)峠、本坂峠(328m)を越す起伏の多い道で気賀関所もあり、姫様のチャラチャラしたイメージとは違う道だ。

 今日は浜松宿から、見付宿起点の姫街道との合流点の追分(三方原追分・元追分交差点)までを途中の街道沿いの坂道に寄りながら歩く。

  【ルート地図】  

Photo姫街道概略図( 細江町・三ケ日町観光パンフ)

地図の右下の「安岡」は「安間」の誤りで、江戸からの里程が64。小池が65。地図の池田から市野宿への「池田の近道」は中世以前の主要ルートだったが、浜松インターチェンジ付近の倉庫群によって道は失われている。池田→安間→市野宿と進むことになる。

 

Img_5809曳馬(ひくま)坂(坂上方向) 東海道との追分の連尺交差点から北西に上る姫街道。【ル-ト地図】の2

曳馬野(三方原方面)へ通じる馬車が出ていたので、こう呼ばれるようになった。昔は石畳の情緒ある坂だった。

 

Img_5811坂下方向

 

Img_5806心造寺

天正7年(1579)、浜松城で秀忠を生んだ家康の側室の西郷局昌子(お愛の方)の開基。

 

Img_5804五社神社

徳川二代将軍秀忠の産土神として篤く崇敬され、子守り、子育ての神として信仰を集める。諏訪神社が合祀されている。

 

Img_5814名残番所跡あたり《地図

名残は地名、少し手前が侍屋敷跡あたりだが跡形も、何の表示もない。

 

Img_5819真向坂(坂下方向) 【ル-ト地図】の3

①真向かいに上る急坂、②坂の途中の地蔵堂が信仰を集め、香華が絶えなかったことから抹香坂だったとも。

 

Img_5827坂標

 

Img_5825坂上方向

 

Img_5829三社神社

 

Img_5831由緒

 

Img_5842犀ケ崖古戦場跡 

三方原の合戦で大敗した家康軍がここで武田軍に一泡吹かせた古戦場跡。

 

Img_5844説明板

 

Img_5847_2武田軍が転落したという深い崖。昔は長さ2km、深さ40m、幅50mの断崖だったと伝える。

 

Img_5837宗円堂

 

Img_5836説明板

 

Img_5845ねずみ小僧の墓があるようだ。

墓は両国の回向院にあるが、さすが大盗賊、墓もあちこちに神出鬼没ということか。

 

Img_5846大島寥太句碑

「岩角に 兜くだけて 椿かな」

 

Img_5848犀ケ崖バス停

①「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」(昭和10年建立) 

②「奥山半僧坊」への道標

 

Img_5851①三方原の戦で敗走中の家康の身代わりとなり、自らを家康と称し、武田軍に突進、奮戦、討ち死にした人物。

旌忠碑(せいちゅうひ)とは忠を誉める碑。『裏面の碑文

 

Img_5849②「奥山半僧坊大権現 五里」の道標

明治14年の山林大火の際に焼けなかったことから、方広寺の鎮守の半僧坊の信仰が全国に広まった。姫街道沿いには多くの半僧坊道標がある。

 

Img_5862大正坂 段子川の大昭橋から姫街道に上る坂。【ル-ト地図】の4

大正時代に坂の北側の山をけずり道幅を広げたことから名づけられた。橋は大正橋でなく大昭橋。

 

Img_5861坂標

 

Img_5864坂上方向

 

Img_5869小豆餅 銭取本舗 《地図

店の左上に「葵の紋」、その下には婆さんに追いかけられる家康が・・・「小豆餅」も「銭取」も家康にまつわる逸話がある。「三方原の合戦で大敗した家康は浜松城に逃げ帰る途中、腹ペコになり道端の茶屋で小豆餅をほおばった。そこへ武田軍が追ってきたので家康はあわてて銭を払わず逃げ、何も知らない茶屋の老婆は「食い逃げ、許さん」と追いかけて来た。

この店の東側が小豆餅という地名で、南に茶屋の老婆が家康から小豆餅代をしっかりとせしめた「銭取」バス停がある。ここから1.5kmはあるか、マラソン婆さんの脚力には家康も参ったか。もちろんただの逸話、作り話よ。

徳川家康三方ヶ原戦役画像』(合戦では負けるし、婆さんには追いかけられるで、疲れて渋い顔をしている。)

この店には「小豆餅」・「銭取」・「三方原」・「出世葵」などの菓子がある。まさに家康様様だ。「姫街道」もあるようだ。

 

Img_5871権現様跡(元追分交差点の手前)

 

Img_5875元追分交差点(三方原追分) 《地図

左からの道が今日歩いた浜松宿からの姫街道(国道257号)、手前の広い道が磐田宿からの姫街道(県道261号)。ここで合流して気賀宿(直進)へ向かう。

2010年5月3日

中国勝山駅(JR姫新線)・・・勝山宿‥神橋(旭川)・高瀬舟船着場跡・・・鈴神社・・・美保神社・・・県道321号・・・杉が乢・・・国道181号・神代集落・四季桜・・・鬼の穴・・・八反バス停・・・(猿飛橋)・旧道・・・美甘小学校田口分校跡・・・太井の坂・・・真橋・・・滝見橋・・・寄水滝・・・首切坂・首切峠・・・国道181号・・・旧道・美甘(みかも)宿・美甘神社・・・国道181号・・・旧道・薬師堂・・・国道181号・・・旧道・・・丸山石造物群・・・今井河原刑場跡・・・新庄宿・がいせん桜通り・本陣跡・脇本陣跡・念仏寺・御幸橋・新庄村役場前→中国勝山駅

 勝山宿から神橋を渡り、杉が乢へ上り神代集落に下りてから、「美甘三里は五里ござる」といわれた難所だったという美甘宿、新庄宿への長い上りが始まる。鬼の穴、首切峠、今井河原刑場跡など暗いイメージが沸くが、晴れているせいもあり、明るい坂道散歩を楽しむ。旧道が一部に残っているが荒れている所もあり国道、旧道、生活道を選びながら進んだ。

 首切峠は落石で通行止になっていたが、無事(無理)に通過する。期待した美甘宿は宿場の面影は薄かった。その分、新庄宿は「がいせん通り」の桜は散ったものの宿場風情が残り、なかなか見ごたえがあった。このあたりは標高500mくらいか、この先、出雲街道は難所の標高770mの嵐ケ乢から四十曲峠を越えて伯耆国(鳥取県)の板井原宿に下ることになる。腰が四重に曲がらないうちに越したいものだ。

 出雲街道⑩(新庄宿→根雨宿)』に続く。

  【ルート地図
2312
高瀬船船着場「雁木」跡(神橋から) 【ル-ト地図】の52
室町時代に開かれた旭川の水運。
高瀬舟は米、木炭、材木、葛、みつまた等を下流に運び、
上りは塩や干物などを積んで往来していた。
2313
文化元年(1804)の創業
2314
鈴神社の急な石段
天正11年(1583)の創建という村社。先も長いし、ここから遥拝のみ。
2315
美保神社

2316
杉が乢(たわ)への上り
2317
峠から杉林を下る。
2318
神代の集落へ入る。
2319
四季桜 【ル-ト地図】の53
1年に4回咲くという、後醍醐天皇ゆかりの桜の何代目。 
2320
説明板
2321
馬頭観音と大日如来碑
2322
鬼の穴 
鍾乳洞で50mくらいは入れるそうだが、10mほどで止めとく。
2323
説明板
2324
 龍宮岩はこれではなく、下の新庄川の川床の奇岩だった。
2325
緩やかに下って行く。
2326
猿飛橋手前を右に入る。
2327
旧道の道標が立つが、荒れている道もある。
2328
新庄川に沿って上る。
2329
美甘小学校田口分校跡(右)
昭和41年に廃校となった。
2330
馬頭観音(右)、左は?
2331
きつい上りでもなく気分のいい道だ。
2332
太井の坂 地図
この先に「太井の坂」バス停がある。
2333
宝篋印塔(14世紀の建立)
2334
寄水滝(首切トンネルの手前)
地蔵 の後ろを細い滝が流れている。
2335
首切トンネル 【ル-ト地図】の54
桜の名所か。やっぱり「『桜の樹の下には』死体が埋まっている」
(梶井基次郎)のだろう。旧道は右に上って行く。
2336
首切峠
落石で通行止めだが、右に行けば迂回できるのかも分からず強行突破だ。
(それほど大げさなことでもないが)
このあたりは戦国時代に幾度も激戦があった古戦場で、
とくに天文17年(1548)尼子晴久が麓城に攻め寄せ
三浦忠近が敗れて自害している。峠付近で多くの首が切られたことから、
こう呼ばれるようになったという。
また享保11年(1726)の山中一揆でも、
首謀者たちの首がここに晒されたという。
付近には腹切岩、殿様墓、女中墓などの地名も残る。
山中一揆の首なし地蔵は「出雲街道⑦」に記載。
2337
落ちている石と、落ちてきそうな石でやっかいな所を通過する。
前に落石が重なっていて通りにくい。
2338
国道に出て、左に美甘宿に入る。
2339
美甘宿の家並み 【ルート地図】の55
2340
旅館老松は今もやっているのか?
2341
鴨の神、味鋤高彦根命を主祭神とする旧村社。
この先で国道に合流する。
2342
麓城跡あたり
標高513mの山城で、築城年代は不明。
戦国時代には三浦忠近が城主で、尼子氏と戦い敗れた。
2343
旧家
2344
旧道を行く
2345
六地蔵
旧道から国道に出た所
2346
田植えは近い、新庄宿も近い。
2347
丸山石造物群
明治44年の疫病の死者の供養のためのもの。
2348
説明板
2349
今井河原刑場跡
こんなのどかな村にも刑場の哀しい歴史があったのだ。
2350
説明板
2352
六十六部廻国碑(享保13年(1728))
2353
出雲街道説明板
確かに山陽と山陰を結ぶ「陰陽の道」
2354
新庄宿説明板
2355
がいせん桜通り 【ル-ト地図】の56
日露戦争の戦勝記念で植えられた桜並木。
両側の水路にはきれいな水が流れ鯉が泳いでいる。
2356
説明板
2357
かつては旅人に振舞われていたという。
2358
雲州侯本陣跡
松江藩の休憩所の「御茶屋」から本陣になった。
2359
説明板
2360
脇本陣木代邸跡
2361
説明板
2362
御幸橋から念仏寺方向
百日紅(さるすべり)の古木が見える。 
2363
説明板
IMG_4108
出雲街道新庄宿
2364
新庄村役場
2365
出雲街道は四十曲峠へと続いて行く。



























































2010年5月2日

院庄駅(JR姫新線)・・・清眼寺・・・八幡宮・・・作楽神社道標・・・錦橋(吉井川)・中須賀の船着場跡・・・八幡神社・・・久米橋・国道181号・旧道・・・茶屋の一里塚跡・・・国道181号・・・弘法大師塔・・・西千代橋・・・旧道・・・二つ柳跡・・・三ケ村の界(栗)石柱・・・上川原橋(久米川)・・・(坪井駅)・・・大渡橋(坪井川)・・・坪井の一里塚跡・坪井宿・・・(国道181号)・・・鶴坂①・・・(中国自動車道)・・・鶴坂峠・鶴亀神社・・・鶴坂神社・・・鶴坂②・・・(姫新線)・・・国道181号・・・塞の神・六十六部塔・・・追分一里塚跡・・・(真庭市)‥かしく茶屋跡・・・追分道標・・・旧道・稲荷橋(河内川)・上河内集落・・・国道181号・・・目木乢・・・旧道・・・米来神社・・・目木橋(目木橋)・・・薬王寺・・・(姫新線)・・・久世宿・旧遷喬尋常小学校・久世橋・金刀比羅神社・重願寺・早川代官像・・・国道181号・・・黒尾川・・・湯原第二発電所・・・(姫新線)・・・高田神社・・・勝山宿・化生寺・玉雲宮・妙円寺・安養寺・三浦坂・大雲寺・明徳寺・武家屋敷跡・旦の坂跡あたり・侍屋敷跡・・・中国勝山駅(JR姫新線)→津山駅

 坪井宿から小さな鶴坂峠を越え、追分から目木乢を越えて久世宿に下る。両方の宿とも昔の宿場風情は薄い。旭川沿いの車道を進み姫新線をくぐり、高田神社前から勝山宿に入る。ここは宿場の町並みが保存されていて、連休中のこともあり賑やかだった。暑さの中、起伏がある街道をけっこうな距離歩いてかなり疲れた。

  【ルート地図
2231
清眼寺(ぼたん寺)
美作八十八ヶ所56番・美作国七福神毘沙門天霊場
右は天保10年(1839)建立の六十六部供養塔で、
脇願主信州佐久郡藤吉郎の名を刻む。
2232
「備後三郎旧跡江之道」で、隠岐へ配流される後醍醐天皇の行在所跡で、
どじな忠臣児島高徳ゆかりの地。
鎌倉から室町時代にかけての美作守護の居館跡で国指定史跡。
写真を撮ろうとしたら辻の民家の犬が一斉に吠え出した。
まさに忠犬で、児島高徳とは比べ物にならないか。
2233
中須賀の船着場跡 地図
吉井川の高瀬舟の水運、出雲街道の宿場として栄えた地。
2234
石灯籠
街道沿いと吉井川沿いに建てられた。河川改修でここに集められた。

説明板

中須賀の家並み
宿場風情はあまり残らず。
2236
宮尾の街道
右に地蔵、六十六部供養塔、地神などが並ぶ。
2237
八幡神社の鳥居
この先の国道と中国自動車道の間に
7世紀創建という、久米廃寺跡があるようだ。
2238
茶屋の一里塚跡
右の榎の下に「茶屋一里塚」の石柱。このあたりに茶屋があった。
2239
西千代(にしせんだい)橋を渡った所の「宝暦屋」は
リサイクルショップに変わってしまった。
2240
二ツ柳跡
雲州からの観音信仰の諸国巡拝者が、
ここの柳の枝を箸にして食事をした。
そしてこれを地に挿しておいたところ、
後日枝葉が出て巨木になったという。今は柳は2本ともなし。
2241
右に「三ケ村の界(栗)」の石柱
三ケ村の境で栗の木が植えられたようだ。
2242
大渡橋(坪井川)を渡って坪井宿へ
2243
坪井の一里塚跡(前方は大渡橋) 
脇に工事用のトイレ(右)が置かれていて、分かりにくい。
2244
説明板
2245
旧家
2246
説明板
2247
昔は中央に水路が流れ、梅、桜、柳の並木になっていた。
水路の北側は出雲街道で旅籠などが並び、
南側の道は生活道として使われていた。
町並みのつくりが麦粒の形に似ていることから、
「麦飯町」とも呼ばれていた。
森家廃絶後は代官所、陣屋も置かれた。(前の説明板の北側あたり) 
【ル-ト地図】の47
今は水路はなく路上駐車ばかりで、
坪井は町並みの景観などには無関心のようだ。
2250
車道を横切り鶴坂①の上りとなる。
坂(峠)上の老松に2羽の鶴が舞い降りたことによる坂名。
2251
説明板
2252
 坂の途中の題目塔、六地蔵などの石造物、上は墓場。
この右側に説明板の力士の塚がある。
2253
坂下方向
「久世を夜出て 目木乢越えて 坪井鶴坂歌で越す」
はこの方向を謡ったもの。
2254
鶴亀神社(中国自動車道を越えた所) 【ル-ト地図】の48
妹の仇討を果たせず、無念にも返り討ちのあった弟と妹の供養塔か。
仇討を果たせば評判になり、もてはやされるが、
実際には稀で、途中で諦めたり返討ちに合うことの方が多かったのでは。
2255
説明板
2256
後醍醐天皇が配流の途中で休息した地に勧請したという。
2257
鶴亀神社から下るのも鶴坂
このあたりが小さな峠上になっている。
2258
坂標
2259
坂下方向
のどかな風景だが暑い。この下で姫新線を渡る。 
2260
岩屋城跡入口の案内板が立つ。
背後の岩屋山(483m)の上に山名教清が築いた山城がある。
2261
六十六部供養塔・塞の神
塞の神の小祠は崩れかかり、祠内は花立だけ。
2262
追分一里塚跡
2263
かしく茶屋跡
追分交差点の手前左の追分茶屋の所。ここから真庭市に入る。
2264
追分の大小2つの道標  《地図
小は「右備中道」(元禄2年(1689))
大は「伊勢大神宮江八十五里」、「伯州大仙江拾七里」、
「出雲大社江三十七里」などで、文久3年(1863)の建立。
「木山宮」は真庭市落合の牛馬の守護神の木山神社。
「口てい疫」騒ぎで参拝者が多いだろうか?
2265
右へ上河内(かみごうち)の宿の集落へ入って行く。
2266
集落入口の地蔵、地神(奥)
正面の大乗妙典供養石の地蔵(享和2年(1802))建立)は
もとは街道沿いにあったもので、邪魔になってここに移されたのだろう。
2267
「宿」の名が残るが、古い家並みは残らず。
2268
集落出口の地蔵(享保18年(1733)の建立)
この先で国道に合流し、目木乢への上りとなる。
2269
目木乢
今は何の風情もない国道181号。乢(たわ)は峠のこと。
2270
長い下りとなる。
2271
米来神社 【ル-ト地図】の49
米来=目木
2272
目木橋から目木川
2273
目木砥石の製造所
本来の出雲街道はここを左に曲がり、大きく南方向を迂回して
久世宿に入ったようだが、見所も少ないようで県道を直進する。
2274
薬王寺  《地図
参勤交代の出雲の殿様も休憩したという寺。
2275
旧遷喬尋常小学校 【ル-ト地図】の50
屋根に高瀬舟をデザインした「久世」の字が織り込まれた校章。
2276
説明板
2277
久世宿
旭川の高瀬舟、七里飛脚も置かれた水陸の要衝地で、
代官所のある陣屋町、宿場町だったが、宿場の家並み、面影は残らず。
2278
重願寺
天領の久世の代官所の門を移築
2279
時雨塚(芭蕉句碑・寛政5年(1793)建立・本堂前)
「はつ時雨 猿も小蓑を ほしげなり」
2280
代官の早川八郎左衛門正紀像 《地図》
善政をしいたそうだ。久世は享保11年(1726)の山中一揆の余波で、
翌年幕府領となり代官が置かれた。
2281
説明板
2282
透明人間がうどんを食べている。
箸とうどんが上下に動いているのだから、そうに決まっている??
2283
旭川と姫新線の間の国道を進む。車がスピードを上げて追い越して行く。
歩道がなくて歩きづらい道が続くが、勝山宿まではもう少しだ。地図
 
2284
姫新線をくぐって国道の北側の道に入る。
古道は原方の集落を通り、旦の坂を越えて
高田神社前から勝山宿へ入った。旦の坂が侍屋敷となり、
道筋も姫新線沿いあたりを西に向い中国勝山駅を過ぎて
北に勝山宿へ入ったようだ。
2285
やっとほっとする風景になる。ここは原方集落で古道に近い道筋だろう。
2286
勝山宿案内図
2287
久寿2年(1155)紀州熊野より勧請し、熊野大権現と呼ばれていた。
明治の神仏分離で旧地名の高田神社と改められた。
2288
開山は「那須の殺生石」でおなじみの玄翁和尚。
2289
説明板
2290
殺生石塚
那須原で玄翁和尚に砕かれて、三方の高田に飛来した
殺生石の一つという。ただし殺生石はこの下に埋められていて、
これはその上に置いた標本石だと。
まあ、すべて伝説のこと、笑ってこらえてか。
2291
由来碑
2292
玉雲宮(たまもりぐう)
九尾の狐が化身した「玉藻の前」を祀るのか?
落語『九尾の狐
2293
日蓮宗では珍しい重層の建物で、方三間層入母屋造
2294
勝山城主、三浦家の菩提寺
2295
三浦坂 
安養寺へ上る石段。
東京の台東区谷中の三浦家下屋敷跡にも「三浦坂」がある。
台東区の坂-3』に記載 
2296
 坂下から
2297
勝山宿の家並み
2298
神橋(旭川)の手前
左は「御前酒」の蔵元
2299
道標
2300
出雲街道は神橋(正面)を渡って行くが、今日はここまでとして、
勝山宿を散策し、中国勝山駅の方へ向かう。
2301
明徳寺
2302
説明板
2303
白菊塚(明徳寺境内)
2304
説明板
2305
武家屋敷渡辺邸 【ル-ト地図】の51
2306
説明板
2307
侍屋敷跡
旦の坂はこのあたりにあった。
2308
説明板
2309
中国勝山駅
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2310
津山の今津屋橋(吉井川)から(18時31分)
2311
18時41分






















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