2010年07月

2010年7月29日

六実(むつみ)駅(東武野田線)・・・県道281号・・・六実の火の見やぐら・・・高龗神社・・・五香稲荷神社・・・(新京成電鉄)・・・金比羅神社・・・子和清水・・・門前公園・金ケ作陣屋跡・・さくら通り・・・(新京成電鉄・JR武蔵野線)・・・かっぱ横丁・・・(新京成電鉄)・・・庚申塔・・・国道464号・・・(国道6号)・・・(千葉大園芸学部)・・・跨線橋(JR常磐線)・・・県道5号・・・坂川・・・角町交差点・水戸街道松戸宿・本陣跡・春雨橋(坂川)・千葉周作修行の地・納屋河岸跡・・・JR松戸駅

 雨と強風の中、松戸宿の納屋河岸を目指す。見所は少ないが気温が低めなのがせめてもの救いだ。

  松戸宿周辺は『松戸市の坂』に記載。

  【ル-ト地図】  

Img_0063高龗(たかお)神社 【ル-ト地図】の⑤

雨水を司る龍神を祀る。江戸時代の馬牧を開墾した「開墾記念碑」、「史跡香実会所跡碑」などが建つ。開墾した順に五香、六実などの地名がつけられた。

 

Img_0067五香稲荷神社 《地図

 

この先で五香十字路を直進するのが旧道のようだが、新京成の線路に阻まれる。線路を越えると金比羅神社の北側から常盤平中学校の南側を通り子和清水と旧道は残っている。(下の生街道の標柱に記載あり)《地図》 そうとは知らず、新京成をくぐってそのまま県道を進んだ。

Img_0069金比羅神社 

 

Img_0076生街道(鮮魚街道)標柱(子和清水交差点手前)

「江戸時代銚子にあがった魚は利根川をのぼり、その後、陸路を布佐(我孫子)~金ケ作~日暮~松戸新田~陣ケ前~納屋川岸と運ばれました。この道筋を生街道といいます。当時の街道は現在地より北へ約50mの常盤平中学校に沿った道でした」

 

Img_0080こっちが旧道のようだ。左は常盤平中学校。

 

Img_0084子和清水【ル-ト地図】の⑥

「親には酒で、子にはただの水」だったという他愛もない話だが、なま道を運んできた魚にここの水をかけ、鮮度を保ったというから大事な清水だったのだろう。以前は池になっていたようだが涸れてしまったのか。

 

Img_0083説明板

 

この先の常盤平柳町交差点で右に進む。

Img_6311金ヶ作陣屋跡(門前公園) 《地図

(2017年2月25日撮影)

このあたりの住民は陣屋の権威をちらつかせ、魚を運ぶ人夫から魚をせしめたとか。「虎の威を借る狐」だ。

 

Img_6312説明板

 

Img_6304さくら通りを少し進む。

(2017年2月25日撮影)

 

Img_6306金ヶ作陣屋跡の表柱 《地図

 

新京成線、武蔵野線を越えて行く。かっぱ横丁に入り、みのり台駅手前で再び新京成を渡る。

Img_0094庚申塔(文化11年(1814)) 《地図

 

国道464号の分実(わかざね)交差点、美野里橋、松戸隧道口から国道6号を渡り千葉大園芸学部に沿って進み常磐線を跨線橋で越え、坂川を渡り角町交差点から水戸街道松戸宿へ入る。

Img_0105 松戸宿本陣跡(左) 【ル-ト地図】の⑦

2004年の夏までここに本陣の建物があった。

 

Img_0103今は「本陣跡地碑」のみ

 

Img_0104説明板

 

Img_0106松戸宿の家並み

 

Img_0107岡松菓子店

 

Img_0108旧家

商家なのか? 昔風情、情緒のある家だが何の表示もない。

 

Img_0110フクヲカ種苗店?

まだ営業しているのだろうか。

 

Img_0112千葉周作修行の地

浅利道場が宝光院(正面)と善照寺の間にあった。千葉周作は少年時代を、奥州街道の栗原郡荒谷村(現大崎市古川)の斗瑩稲荷神社下の屋敷で過ごした。周作の道場があった神田お玉が池跡は、落語『佃祭』に記載。

 

Img_0111説明板

 

Img_0113原田米店

元文2年(1737)創業という。今は営業していないようだ。

 

Dsc01283納屋河岸の旧船問屋の青木源内家の復元された塀

ここは魚、野菜など物資を扱う河岸で、旅客は少し下流の下横町渡船場(下河岸)から松戸宿へ入った。(2006年6月3日撮影

 

Dsc01285納屋河岸跡の江戸川土手から 【ル-ト地図】の⑧

銚子沖で獲れた魚は前日の夕刻、銚子を発って利根川をさか上り、布佐に翌日未明に着き、なま道で駄送され昼までにここに着いた。江戸川を下り夕方から夜に日本橋に着き、翌朝のせりに掛けられた。

ここは往時は蔵や納屋が立ち並んでいたそうだ。

 

Img_0115江戸川

ここから下って旧江戸川へ入り、日本橋小網町までの水路は行徳みち(木下街道)と同じ。旧江戸川を下り→右に細い新川に入り→中川に出る。ここに船改めの番所があった→小名木川に入り→隅田川に出る→細い水路を入ると日本橋小網町→日本橋魚市場という水路。

 

Img_0116新しい常夜灯も建っている。

強風で傘も壊れ、歩きも雑になった半日だった。

2010年7月28日

布佐駅(JR成田線)・・・観音堂・・布佐河岸跡(利根川)・・・(JR成田線)・・・(国道356号)・・・関枠橋(手賀川)・・若山牧水歌碑・・・・旧道・・・大杉神社・最勝院・・・長屋門・・・下前川橋(亀成川)・・・県道59号・浦部の坂・・・永治郵便局・旧道・・・大六天神社・・・月影の井戸・・・県道59号・・・浦部の百庚申・出羽三山碑・・・馬頭観音・・・阿夫利神社鳥居・旧道・・・阿夫利神社・・・道標・馬頭観音・・・出羽三山碑・庚申塔群・・・白井第二工業団地・・・河原子台交差点・・・大師堂・・・(国道16号)・・・金比羅社・・・富塚鳥見神社・・・(矢ノ橋)・・・成田道道標・・・金比羅宮・大沼枕山撰碑・・・台町の坂・鮮魚街道常夜灯・相馬商店・・・海上自衛隊下総航空基地を迂回・・・給水場・・・報恩寺・・・動物愛護センター・・・旧道へ復帰・・・山王橋・・・佐津間城跡・・・(県道8号)・・・(東武野田線)・・・六実駅(東武野田線)

 鮮魚街道の主流ルートだった「なま道(松戸みち)」を2回で歩く。ただし、この時期は鮮魚は関宿回りの全部水路の船による運送だったが。
 今日も鮮魚なら1時間も経たないうちに腐ってしまうような暑さだ。自販機で買った冷たいお茶も、すぐにホットティーに変わってしまった。暑さに加え、街道は自衛隊基地に分断され大きく迂回せねばならず、気分的な疲れが倍増した。今日は五香駅(新京成電鉄)までの予定でいたが、手前の六実駅までで切り上げた。 

  【ル-ト地図】  

Img_9876なま道の説明板(観音堂の裏)

分かりやすく書かれている。

 

Img_9880観音堂 《地図

新四国相馬霊場の58番

 

Img_9886布佐河岸跡(下流方向) 【ル-ト地図】の①

左にカーブした先に木下(きおろし)河岸がある。

 

Img_0031なま道(松戸道・鮮魚街道)のルート

南側の点線(木下河岸→白井→鎌ヶ谷→八幡→行徳)が前回歩いた行徳道(木下街道・鮮魚街道)で鮮魚街道としては本街道だが、陸路が短く、通し馬で運べたこちらの松戸道の方が常に優位に立っていた。

観音堂裏手に戻り南に進み、成田線、手賀川を渡る。

Img_9895若山牧水歌碑 【ル-ト地図】の②

大正14年に手賀沼で舟遊びをした時の歌。「はるけくて・・・・」?

 

Img_9906旧道に入るとほっとする風景が広がる。

 

Img_9909旧家

 

Img_9911大杉神社(右)・最勝院(左) 《地図

最勝院は『総州六阿弥陀』の回向所。

 

Img_9918長屋門

中の母屋も立派だ。

 

Img_9926下前川橋(亀成川)

昨日までは工事中で迂回しなければならなかった。ついてる。

 

Img_9930浦部の坂を上る。《地図

永治郵便局の手前の旧道に入る。

 

Img_9936大六天神社 《地図

前方後円墳の上に小祠、印西八景「大六天の手賀沼」の標柱、手賀沼干拓発祥の地の碑がある。水田の彼方に手賀沼が見えるというのだが、全然気がつかなかった。たしかに手賀沼までは直線で1kmくらいか。

 

Img_9939月影の井 【ル-ト地図】の③

「日本三井」の一つという。底に水が少し溜まっているように見える。右の井戸はもう使えないのだろう。

鎌倉の「星の井」は『鎌倉市の坂-4』に、「日影の井」は奥州街道二本松の霞ケ城内にある。「星の井」は鎌倉十井の一つだが、日本三井との記述は見当たらなかったが。

西方200mが千葉氏の一族の大菅氏の龍崖城址

 

Img_9940説明板

 

Img_9943竹林のうす暗い道を上り県道59号に出る。

 

Img_9950浦部の百庚申・出羽三山碑

天保10年(1839)の文字庚申塔がほとんど。青面金剛像のもある。ここのも赤く塗られているのは何故か?

 

Img_9959蛙好きの農家?

 

Img_9963阿夫利神社鳥居

昔は、旧道を跨いで建っていたそうだ。ここを右に曲がる。直進すればすぐに清戸道バス停交差点で、木下街道に出る。

 

Img_9967途中で右に入る。

 

Img_9971阿夫利神社 《地図

拝殿だろう。さらに左の石段を上る。

 

Img_9973「石尊さま」と呼ばれている、由来となった2つの石を祀ってあるのだろう。

 

Img_9972由来

「石尊さま」にもいろいろあったのだ。

 

Img_9980成田山道標・馬頭観音など

道標には、「亀成 一里 木下 二里 成田 七里」、「十余一 舩穂 佐倉 千葉」、「中村 松戸 東京」などとある。

 

Img_9989白井工業団地を抜ける。味気ない通りで余計に暑さが増す。

 

Img_9992大師堂

 

この先で国道16号を渡る。

Img_9999金比羅社のようだ。

 

なま道からはずれ、富塚鳥見神社へ寄り道する。

Img_0001旧家

 

Img_0009富塚鳥見神社 《地図

本殿はそれほどでもないが、歓喜天像は面白い。

 

Img_0008説明板

 

Img_0015歓喜天像

男女和合、縁結び、子恵みの神という名に恥じず、堂々と抱き合い口先を絡めている。見ているだけで暑さが増すか?

 

Img_0010説明板

 

Img_0018参道に並ぶ庚申塔の中に「切られ庚申」があるというがどれか分からず。

ある晩、鮮魚師が銚子から魚を輸送中に火の玉に襲われ刀を振り降ろしたところ、庚申塔に切りつけてしまったという。その刃跡が残っているというが。

 

Img_0005道標

鎌ヶ谷、藤ケ谷、六実駅などの文字が見える。

 

Img_0023矢ノ橋近くの池

「金山落し」という手賀沼へ注ぐ小川(今は暗渠)で《地図》、戦国時代に川を挟んだ激戦があり、両軍の矢が橋のように重なり合ったという。また『村雨丸伝説』もある。村雨公園もあるようだが、どこか分からず。

 

Img_0027成田山道標(道路を挟んで右はセブンイレブン)

ここからはなま道だ。

 

Img_0033金比羅宮 《地図

なま道で鮮魚を運ぶ人、道沿いに暮らす人に信仰されてきた水運の神も、今は店じまいかこんな状態。致し方なしか。右に大沼枕山(ちんざん)撰碑が立つ。

 

Img_0029説明板

 

Img_0034_2大沼枕山撰碑

五日市街道の石浜古戦場跡にも、枕山の詩碑がある。

 

Img_0036台町の坂を上る。《地図

坂の途中、左に常夜灯、相馬屋商店。

 

Img_0037鮮魚街道常夜灯 

明治になって建てられたもの。このあたりは鮮魚街道の中継地として賑わい、輸送人夫たちの食事、休憩、宿泊所や「酒、賭博、女」の遊興の場所もあった。向こうは相馬商店で、かつて人夫たちはここの井戸水を魚にかけ、一休みしたという。

 

Img_0038説明板

 

Img_0046広大な自衛隊航空基地にぶち当たり街道は途切れ大きく北に迂回する。

 

Img_0048迂回し南に進む。左は自衛隊基地 《地図

昔は一面の茅(かや)の原と鬱蒼とした山林で、街道の傍らに芽を刈って積んで置くと、魚を運ぶ人夫たちがそこに魚を隠し(後で猫糞(ねこばば)するため)、それを村人が横取り、失敬したという話や、「狐の嫁入り」の話、狼が棲んでいたなど、時々聞こえる無機質な航空機?の音からは想像できない世界が広がっていたのだ。

 

Img_0049佐津間城址 【ル-ト地図】の④

正面のこんもりした所。

 

Img_0050旧道はここへ通じていた。正面奥は自衛隊基地。《地図

 

Img_0057佐津間城跡

住宅地をウロウロしたが入口が分からず、あきらめかけ六実駅に向かいかけてやっと見つけた。

 

Img_0059佐津間村は戦国時代後半には小金大谷口城(松戸市小金)の高城氏の支配下にあったと考えられ、その配下の豪族の砦として利用されたらしい。土塁跡?を分断し階段がつけられ、上は住宅地で遺構は残らず。

 

Img_0058説明板

2010年7月26日

白井駅(北総鉄道)・・・県道59号・・・(県道189号)・・・徳本念仏塔など・・・天満宮・(国道16号)・・・(県道280号)・・・秋本寺・・・金比羅社・・・白井宿・・鳥見神社・・伊勢宇橋碑(白井橋(神埼川))・・・神々廻木戸バス停・・・馬頭観音道標・・・香取神社・・・清戸道バス停交差点・念仏塔道標・・・千葉ニュータウン・県道189号・・・(県道61号)・・・泉新田大木戸野馬堀遺跡・・・新泉寺跡・・・八幡神社・・・泉王寺・・・県道4号・・・旧道・・・道標(鹿黒集会所)・・・県道4号・・・鹿黒橋(亀成川)・・大森宿・・大森陣屋跡(大森坂上)・馬坂・・大森交差点(国道356号)・・・印西署入口交差点・・・上町観音堂・いんざい七福神・・・(JR成田線)・・木下宿・・木下河岸跡(利根川)・・吉岡邸(まちかど博物館)・・柏屋・・・木下駅(JR成田線)

  【ル-ト地図】  

Img_9690徳本念仏塔(文化12年(1815)建立・白井第一小学校前) 

馬頭観音などの石造物もある。

 

Img_9699秋本寺

しろい七福神」の毘沙門天

 

Img_9703金比羅社

小堂の中はあまり手入れされていないようだ。

 

Img_9707鳥見神社 【ル-ト地図】の⑦

正徳3年(1713)建立の市内最古の石造の明神鳥居。

 

Img_9708説明板

 

Img_9712白井宿の町並み(本白井郵便局前)

枡形の名残りか

 

Img_9714旧家の前を下って白井橋へ。

 

Img_9718白井橋脇の「伊勢宇橋碑」 《地図

江戸浅草花川戸の醤油屋、伊勢屋宇兵衛が、亡き父の供養を兼ねて故郷の常陸国江戸崎から江戸日本橋に通じる道筋に百の石橋を架けた。この白井橋の元々は86番目にあたる橋だった。

 

Img_9728門だけが残っている。

 

Img_9735昭和から江戸時代までの庚申塔が集められているが、赤く塗られているのは何故か?

 

Img_9739街道風情が少し残る所もある。

 

Img_9743馬頭観音(神廻々(ししば)木戸バス停の少し先)

右端は道標を兼ねていて、「左 ひらつかみち」、「右 うらべみち」とあるそうだ。平塚も浦部も次回歩く、布佐河岸から松戸の納屋河岸までの「なま道(鮮魚街道)」(松戸みち)沿いにある。

 

Img_9746香取神社

 

Img_9750清戸道バス停交差点

木下街道は右へ、左へ曲がるとすぐに「なま道」(鮮魚街道・松戸みち)に出る。木下街道も木下河岸から行徳新河岸までの鮮魚街道(行徳みち)だが、鮮魚運送の主流は松戸みちだった。

芭蕉は『鹿島紀行』で、このあたりから「なま道」に入り、布佐から船で利根川を下ったのだろうか。昨日から付き合ってきた県道59号ともここでお別れとなり、千葉ニュータウンを突っ切って行く。

 

Img_9753念仏塔道標(これも徳本念仏塔か) 《地図

右側面に「大も里むらみち」、左側面に「ふさむらみち」

大森村(木下街道)と布佐村(なま道)で、逆方向だから、ここへ移されたものだろう。

 

Img_9758千葉ニュータウンの長い単調な道を進む。暑さが増す感じだ。

 

Img_9762行き止まりだが、もちろんお構いなく直進して県道61号を渡り、造成中の区画を突っ切る。県道61号を左に行って大きく迂回できるが、そんな悠長な人は尊敬に値するか。《地図

 

Img_9764ここを突っ切り、正面の柵を乗り越える。下の土はひび割れていた。雨や雨上がりの時などは、歩くと靴と足が泥の中に沈んで抜けなくなるかも。そうなるとみっともない状態になる。「経験者は語る」のだ。

 

Img_9765振り返るとこんな感じ。

この間の一部始終を鈴木梨園の売店のおばさんに見られていた。同じことをする人を見かけるそうだ。しばし、このあたりの変わり様などについて聞きながら小休止とする。

 

Img_9766泉新田大木戸野馬堀遺跡 【ル-ト地図】の⑧

印西牧の中を東西に貫いていた木下街道と牧が接する所に設置された木戸、野馬除けの土手と堀跡。

 

Img_9767説明板

このあたりは土埃が多く、まだ設置してから5年も経っていないのにこんな状態。たまには拭き掃除くらいしろよ。

 

Img_9769造成で野間堀の土手が削られているのか?

 

Img_9771新泉寺跡(左)

やっと庚申塔など並び旧道らしくなったが、この先は再び味気ない道となる。

 

Img_9779泉王寺?

「愛宕山紀念」の門柱が建っていたが。

 

この先で左に曲がり県道4号に出て北上する。曲がり角に小さな道標があるそうだが見落とした。

Img_9782野馬の姿を彷彿とさせる原野が広がっているが、ここもすべて住宅で埋め尽くされてしまうのか。

 

Img_9784左に旧道があるのだが、造成工事中のフェンスで遮断され入れない。

 

Img_9797フェンスが途切れやっと左に入れた。直進し突き当たりを左折するとここ(鹿黒集会所)に出る。旧道は写真の正面方向からここに通じている。8月20日からは通行可能となる。集会所の敷地内には馬頭観音などが集められ、カーブミラーの下に道標が立つ。 《地図

 

Img_9796道標には、「東 大もり 木下道」・「南 泉新田道」・「西 和泉 小倉道」・「北 かめなり ほつさく道」

 

Img_9803鹿黒橋(亀成川)へ下る。

 

Img_9805鹿黒橋から上りとなって馬坂の坂上に出る。この坂も馬坂と呼んでいたかも。

 

Img_9811馬坂を下る。【ル-ト地図】の⑨

大森坂上バス停あたりに大森陣屋があった。享保8年(1723)に山城の淀へ移封された佐倉藩主稲葉家の印旛郡に残った飛地支配のための代官所だった。

 

Img_9814坂下は国道356号

右は馬頭観音

 

国道356号を渡り、印西警察署入口交差点を右折して上町観音堂から木下河岸跡へ向かう。

Img_9833上町観音堂 《地図

手前の笠付き庚申塔と、その右の十九夜塔(天明2年(1782))は道標を兼ねている。

庚申塔の右側面は「従是左さくらみち 従是東鹿島みち 従是右江戸みち」で、十九夜塔は「右えどみち」、「左さくらみち」か。右に「いんざい七福神」の寿老人の小祠がある。

 

Img_9830説明板

 

Img_9846木下河岸跡(利根川下流方向) 【ル-ト地図】の⑩

ここまで利根川を上って船で運ばれた魚は、行徳河岸まで駄送(馬による陸上運送)された。木下街道は「鮮魚街道」、「行徳みち」とも呼ばれた所以だ。行徳河岸からは水路(「木下街道①」に記載)で日本橋まで運ばれた。

鮮魚の輸送路としては、少し上流の布佐から松戸に至る「なま道」、「松戸道」の方が常に優位を保っていた。駄送の距離が短いのと、宿の継ぎ立てがなく、通し馬で運べたことによる。「なま道」は次回歩く。

 

Img_9837説明板

 

Img_9848上流の布佐方向

布佐河岸から松戸の納屋河岸までの鮮魚街道「なま道」(松戸みち)は次回歩く。

 

Img_9850木下河岸風景

江戸から明治時代かけ利根川の舟運で栄え、文化、文政期には利根川を下り、香取神宮、鹿島神宮、息栖(いきす)神社の三社参りや銚子の磯を楽しむ木下茶船の旅が流行し、最盛期には50軒余りの旅籠や飲食店が軒を連ねていた。その後の成田鉄道の開通、木下駅の開業、利根川堤防の河川改修などにより、河岸周辺の家々は移転し河岸は衰退していった。

 

Img_9853吉岡家

右の蔵は「まちかど博物館」になっている。毎月第一土曜だけ開館。

 

Img_9860柏屋そば店

どっしり落ち着いた古い造りの店で入ってみたかったが、ちょっと前に大森交差点の中華屋でボリュームのある昼飯を済ませたばかりで、残念ながら外から眺めるだけ。

 

Img_9863近江屋酒店

今は営業していないようだ。

 

Img_9818近江屋酒店(印西警察署入口交差点の先)

ここは営業中だ。

 

Img_9865木下駅(JR成田線)

手賀川を歩く』・『総州六阿弥陀』でもこの駅を訪れた。

 

Img_9873

説明板

2010年7月25日

行徳駅(地下鉄東西線)・・・県道6号・・・押切稲荷神社・・・押切交差点・・・行徳宿・ぽっくり稲荷(田中翁生誕地)・・枡形・・豊受神社・・枡形・・笹屋うどん跡・・旧江戸川・行徳新河岸跡・常夜灯・・神明宮・・八幡神社・・芭蕉句碑(田中家)・・神明(豊受)神社・・稲荷神社・・正源寺・・胡録神社・春日神社・・行徳橋(江戸川)・・・(稲荷木緑道)・・・雙輪寺・・・稲荷神社・・・一本松跡・延命地蔵・庚申塔道標・(京葉道路)・・・甲大神社・・・(JR総武本線本八幡駅)・・・本八幡交差点・成田街道合流地点・国道14号・・・(京成本線)・・・八幡宿・葛飾八幡宮・・不知森(神社)・・境橋(真間川)・・・鬼越2丁目交差点(成田街道分岐地点)・中村邸・県道59号・・・高石神社・・・深町坂・・・東山魁夷記念館・・・北方(ぼっけ)十字路・中山競馬場・・・白幡神社・・・(船橋法典駅・JR武蔵野線)・・・七面堂・・・法宣庵・・・藤原観音堂・・・私塾安川舎跡・・・神明宮・・・藤原新田高札場跡・・・(東武野田線馬込沢駅)・・・馬込天満宮・・・馬込十字路(県道8号)・・・源兵衛坂・清長庵(地蔵道標)・・・平六坂・・・鎌ヶ谷宿・延命寺・・(鎌ヶ谷大仏駅・新京成電鉄)・・鎌ヶ谷八幡神社・・鎌ヶ谷大仏・・・(県道57号)・・・魚文句碑・・・天神社・・・(中央競馬会競馬学校)・・・国道464号・・・白井駅(北総鉄道)

 江戸からは香取・鹿島・息栖(いきす)の三社詣や、銚子浦への遊覧ルートで、「鹿島道」、「印西道」、「銚子道」とも呼ばれ、木下からは銚子沖で獲れた鮮魚を利根川、江戸川を経由して運ぶ際の両河川をつなぐ陸路で、「鮮魚街道(なま道)」、「行徳道」、「江戸道」とも呼ばれていた「木下(きおろし)街道」を2回で歩く。

  【ル-ト地図】  

Img_9413押切稲荷神社 《地図

十一面観音が尊体(神体?祭神?本地仏?)という変わった神社。神仏習合思想では、稲荷の本地仏は荼枳尼天(だきにてん)で、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)などだが。お狐さんもびっくり、とまどいの表情を見せているか。

 

Img_9412由緒

 

押切交差点を右に曲がると行徳宿で「行徳千軒寺百軒」といわれたように寺社が多く、旧家もぼちぼちと見られ、南から伊勢宿、下新宿という地名も残っている。

Img_9415旧家

 

Img_9417行徳の発展に尽くした田中幸之助の胸像、田中稲荷の小祠(通称ぽっくり稲荷)、ぽっくり蛙などが並ぶ一角。平成20年に造られたようだ。街道を歩いていて「ぽっくり」逝ってしまうのは御免蒙りたいので、さっと通り過ぎる。

 

Img_9419枡形の跡

 

Img_9420旧家

 

Img_9421旧家

 

Img_9425豊受神社(もとは神明社)

3年に一度の10月の本祭りでは行徳独特の神輿の揉み方で練り歩くそうだ。

 

Img_9428後藤御輿店

2階の両側に浮き彫りの絵が描かれている。

 

Img_9431旧家

 

Img_9432笹屋うどん跡

日本橋小網町から行徳船に乗った旅人は行徳河岸で降りると、まずはここのうどんで腹ごしらえをしたといい、古くは源頼朝が安房に逃れる時に寄り、宮本武蔵も立ち寄ったという伝えもあるほどの老舗。下新宿の徳願寺には武蔵の描いた絵があるとか。

 

Img_9436行徳新河岸常夜灯(文化9年(1812)の建立) 【ル-ト地図】の①

 

Img_9443説明板

 

Img_9446旧江戸川(新河岸跡から下流の東京湾方向)

行徳の塩、木下河岸から駄送(馬による陸上運送)された鮮魚は、ここから行徳船で日本橋小網町へ向かった。旧江戸川を下り→右に細い新川に入り→(旧)中川に出る。ここに船改めの中川番所があった→小名木川に入り→隅田川に出る→細い水路を入ると日本橋小網町の行徳河岸→日本橋魚市場という水路。なお旧暦の5月から7月の夏季には関宿まわり(利根川→江戸川)の全航程水路による「活舟」(船底に魚を活ける装置のある船)で送った。

レジャーの船はみな東京湾の方向へ向かっている。川の上はさぞかし涼しいだろう。こん酷暑の日に、汗を拭き拭き街道を歩くのは風雅をわきまえぬ所業なのだ。

 

Img_9450旧家

 

Img_9453神明宮

日を浴びて一部黄葉しているようにも見える。

 

Img_9465田中家

行徳塩田の所有者の「塩場師」(しょばし)で、行徳船で新河岸から日本橋小網町まで塩を運んだ。「ぽっくり稲荷」の田中幸之助氏もここの家系だろう。

左手前に芭蕉句碑がある。「月はやし 梢は雨を 持ちながら」 『鹿島紀行』の鹿島での句。

 

Img_9469澤木酒店

 

Img_9473平川医院

 

Img_9479神明(豊受)神社 《地図

16世紀前半の頃、金海法印という山伏が建立したという。この山伏はが高く、いが正しいので人々から「行徳さま」と崇められ、行徳の地名になったという。

 

Img_9487正源寺

一度も開帳したことがないという、「盲目弁財天」があるそうだ。見ると目がつぶれるという、「弁天のご開帳」か?? たとえ盲目になるとも、スケベな私としてはぜひとも拝ませてもらいたいものだ。実際は見るとがっかりしてしまう醜女弁財天で、もっともらしい由来話を作って秘仏なんて言っているのが落ちだろうよ。
行徳・浦安三十三観音霊場の第7番札所。

 

Img_9488由緒

 

Img_9495胡録神社(右)・春日神社(左)

 

Img_9498行徳橋(江戸川)

歩道が狭く自転車とすれ違うのに苦労する。日曜で通行が多くなおさらだ。

 

Img_9500下流の東京湾方向

正面は新行徳橋(県道6号)

 

Img_9507雙輪(そうりん)寺

行徳・浦安三十三観音霊場の9番・10番

 

Img_9509稲荷神社

このあたりは「稲荷木(とうかぎ」という地名。「下総いちかわふれあい七社」の一つ。

 

Img_9513一本松跡・延命地蔵・庚申塔道標・馬頭観音 【ル-ト地図】の②

昭和48年に伐採され切り株だけが残る。庚申塔道標(正徳3年(1713))には「これより右やわたミち」、「これより左市川国分寺みち」。延命地蔵(享保13年(1728))も、もとは本八幡交差点(成田街道・国道14号)にあって道標も兼ねていた。

 

Img_9519説明板

 

Img_9525甲大(かぶと)神社 《地図

将門の兜を祀るとも源義家の兜を祀るともいう。葛飾八幡宮の摂社で「注連下」と称する。古来、武将が社の前で馬に乗り打ちすれば必ず落馬したという。

 

国道14号の本八幡駅あたりから真間川あたりまでが八幡宿だったようだが、宿場の面影は皆無。旅籠も数軒だけだったようだが。

Img_9533葛飾八幡宮随神門

もとは仁王像だったが、明治の神仏分離で左右大臣像に変えられ仁王像は徳願寺へ移された。

 

Img_9530由緒

 

Img_9536社殿の右端に鐘楼

神仏分離までは上野寛永寺の末寺が境内にあり、鐘楼はその名残り。

 

Img_9539千本公孫樹

多数の樹幹が束のように集まって一本の木のように見える。

 

Img_9538説明板

 

Img_9545頼朝駒止石

あちこちにある「・・・石」の一つのただの石。「ひづめの跡」すらはっきりしない。

 

Img_9544説明板

 

Img_9548不知森(神社) 《地図

入ってはいけない理由は6説もある、訳の分からぬ森。竹薮が多いようだ。黄門さんもこの森に入って祟りにあったという。「この紋どころが目に入らぬか」と印籠を振りかざしてみても、神には通じなかったようだ。

鳥居の右側に常陸から江戸に通じる街道筋に百の石橋を架けた、江戸浅草花川戸の醤油屋、伊勢屋宇兵衛の「不知八幡森」碑が建っている。

 

Img_9552説明板

 

Img_9561境橋(真間川)を渡る。

 

Img_9568中村味噌店(鬼越2丁目交差点・成田街道分岐地点) 《地図

もう営業はしていないようだ。裏手に東葛人車鉄道の中山荷扱所があった。ここで左折し木下街道の主要ルートの県道59号に入る。
成田街道は東進する。

 

Img_9570高石神社

石段上左側に神社への道標を兼ねる題目塔がある。他所から移されたものだろう。

 

Img_9576深町坂を上る。【ル-ト地図】の⑤

ここを東葛人車鉄道が走っていた。

 

Img_9578坂上近く

坂上右に東山魁夷記念館がある。

 

Img_9579東山魁夷記念館

昭和20年から平成11年に亡くなるまで市川に在住したそうだ。

 

Img_9581中山競馬場

非開催で場外発売だけだが、この暑さの中を電車、自動車、バス、自転車、オートバイ、徒歩で続々と人参代を持って来てくれる。中央競馬会の連中は、「濡れ手で粟」、「棚ぼた」、「果報は寝て待て」で笑いが止まらずか。そういう自分も随分貢いだが。過去形か?

 

Img_9582白幡神社 《地図

右は題目塔道標(享保16年(1731)建立)で、左側面に「従是左中山法華経寺道」 

 

船橋法典駅の上を過ぎる。「法典」も宮本武蔵と縁の地のようだ。ただし小説上の話だが。『千葉妖怪伝説

Img_9589七面堂

 

Img_9591法宣庵入口の地蔵

頭上に「妙法」とある日蓮宗系のもの。馬込の脱走塚から移されたという、戊辰戦争幕府方脱走兵の鈴木梅之輔の墓もあるという。

 

Img_9592藤原観音堂 《地図

山賊に襲われた時に身代わりになったという観音像を安置。手前の石灯篭は堂建立に際し、新田の開墾を請け負った者から元禄3年(1690)に寄進されたもの。宝暦5年(1755)銘の丸彫り石造地蔵の小堂もある。

 

Img_9593説明板

 

Img_9596この観音像は前仏だろう。

 

Img_9600安川家(私塾安川舎跡)

文化8年(1811)の開塾で父子5代にわたって近隣村々の子弟の教育に尽くした。広い雑木林の奥に家があるようだ。「立入り禁止」の表示板があった。

ここは「貝塚道」バス停のそば。街道沿いには「○○道」というバス停が多い。

法典小学校手前の中沢道バス停交差点に「藤原新田高札場」があったようだ。

Img_9612馬込天満宮 《地図

鳥居の先に冠木門? 境内左に庚申塔が集められている。

 

Img_9608庚申塔道標(右から3番目・文化4年(1807)建立)

左側面に「左かねが作ミち」で、もとは県道8号との交差点の北東側にあったもの。「金ケ作」は陣屋のあった松戸市の新八柱駅(JR武蔵野線)の北側。

 

Img_9619源兵衛坂を上る。

坂の途中の清長庵に地蔵道標がある。

 

Img_9624地蔵道標(正徳5年(1715)建立)

鎌ヶ谷市内最古の道標で、地蔵道標は市内で唯一。街道沿いのどこにあったのかは不明だそうだ。

 

Img_9623説明板

「じんほう」とは船橋のことのようだ。

 

Img_9633平六坂 《地図

下って上る坂か?

 

Img_9635延命寺(中山法華経寺の末寺)

このあたりから大仏十字路までが鎌ヶ谷宿で、問屋が1軒、旅籠が6軒(船橋屋・鹿島屋・銚子屋・柴崎屋・江戸屋・丸屋)あった。鹿島屋で文政8年(1825)渡辺崋山が昼食をとったそうだ。

 

Img_9636旅籠丸屋

天保9年(1838)に大原幽学が宿泊している。

 

Img_9642鎌ヶ谷八幡神社

左に百庚申が並ぶ。社殿の右には庚申塔道標がある。

 

Img_9639由緒

 

Img_9644_2百庚申説明板

 

Img_9647庚申塔道標(中央・寛政7年(1795)建立)

台座の右側面に「東 さくら道」、左側面に「西 こがね道」、もとは大仏十字路付近にあったという一里塚の上にあったもの。

 

Img_9646説明板

 

Img_9658鎌ヶ谷大仏(安永5年(1776)建立) 【ル-ト地図】の⑥

開眼供養の席には江戸の八百善の料理300人分が運ばれたという。

 

Img_9656説明板

 

Img_9664魚文(ぎょぶん)句碑道標(明和元年(1764)建立) 《地図

「ひとつ家へ 人を吹込む 枯野かな」

芭蕉の高弟の直系の高弟? 芭蕉の威光は大したものだ。右側面に「右 きおろし道」、左側面に「左 中木戸道」

 

Img_9666説明板

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この先で白井市に入ると、関牧場、白井開拓などのバス停がある。あたり一帯は幕府直轄の広大な馬牧だった。明治になって牧が廃止され、旧下級武士の失業対策の開墾事業が始まった。開墾された新しい土地には数字のつく縁起のいい名がつけられた。「初富・二和・三咲・豊四季・五香・六実・七栄・八街・九美上・十倉・十余一・十余二・十余三」と9市にもまたがるのだから、その広さが分かる。

Img_9673大きな農家

 

Img_9676天満宮

お囃子が聞こえるが人はわずか。祭りのリハーサル中か?

 

Img_9677日本中央競馬会競馬学校 《地図

天才武豊はただのおじさんジョッキーになってしまったし、一年目で大天狗になった三浦皇成は、勝ち鞍が半減以下になってしまった。世界に通用する人馬は俺の生きている間は出現の望み無しか。

 

Img_9681白井駅(北総鉄道)

もとは北総開発鉄道といった。開発が終了したのか、開発が破壊を伴うという意味合い持つのを避けたのか開発の文字がなくなったが、運賃が高いことは相変わらずだ。白井駅から東松戸駅まで約10kmで480円とは。

2010年7月16日

寒川駅(JR相模線)・・・車地蔵堂・・・一之宮小学校入口交差点・梶原景時館跡(天満宮)・・・県道47号・四之宮の渡し跡・田村の渡し跡分岐・・・西寒川駅跡(八角広場)・・・四之宮の渡し跡あたり(寒川側)・・・分岐点・・・大山道道標・河原不動堂・・・河原l橋(目久尻川)・・・神川橋(相模川)・・・田村の渡し跡碑・・・八坂神社・・・田村十王堂跡・大山道道標(旧田村十字路)・・・貞性寺・・・田村駒返橋跡・・妙楽寺・・・一里塚跡碑(鹿見堂橋バス停)・・・国道129号・・・四之宮交番前交差点・・・旧道・・・諏訪神社・・・供養塔道標(四之宮道合流点)・・・(国道129号)・・・前鳥神社・・・四之宮の渡し跡(平塚側)・・・合流点・・・真土神社・古道中原街道碑・・・日枝神社・・・高札場跡・・・中原御殿跡(中原小学校)・・・善徳寺・・・道祖神・諏訪部神社・・・要法寺(平塚の碑)・・・東海道平塚宿問屋場跡・・・(東海道)・・・平塚駅(JR東海道線)

  【ル-ト地図

 梅雨明けかと思わせるような、ぎんぎらぎん照りの下を相模川を越え、中原御殿跡から東海道平塚宿まで歩く。 

Img_9260車地蔵堂 《地図

小田原城主大森実朝の孫で、田端(寒川町)の生往寺開基の菊地泰次が慶長2年(1597)に建立し、安産子育地蔵を祀ったと伝えられる。車に乗った地蔵をお祈りする人には自分の子や孫の時代に幸せが車に乗ってやって来るという、「三界ハ輪廻ノ如シ」という仏教の教えに従ったものだそうだ。霊験あらたかな子育地蔵として江戸時代には講を組織し、参詣する人も多かったという。暗い堂内の写真を撮ってみると、地蔵の上半身は写っていたが、足元の方は写ってなく車に乗っているかどうかは見えなかった(この地蔵は前仏かも)。 一般的な車地蔵は、柱に取り付けられた後生車(地蔵車)を回すと六道の苦難から救われ、後生安楽に成仏できるというもの。『鶴見区の坂-6』に記載。

 

Img_9261梶原景時館跡(天満宮) 《地図

ここは広大な館の物見の場所で、後に里人が文武両道に秀でた景時を讃え天満宮を建てたともいう。

 

Img_9262説明板

 

Img_9263館跡図

 

Img_9267田村の渡し跡(右へ)・四之宮の渡し跡(左へ)分岐点 《地図

 

Img_9273西寒川駅跡(八角広場)

線路の一部が残る。ここは相模海軍工廠跡で2002年に化学兵器(毒薬)が発掘されて話題となった。

 

Img_9281四之宮の渡し跡あたり(寒川側) 《地図

正面は下流の湘南銀河大橋、その下流に東海道の馬入橋が架かる。

古くは奥州道、中原街道の渡しで、家康が中原御殿から江戸城へ帰る時の「四之宮の逆船」(「郷土の名所旧跡の2-7」)の説話も残る。実際の船着場は流れの変動に応じて目久尻川の合流点付近や前鳥神社のすぐ東付近の間でたびたび移動した。その後、東海道の整備と大山詣の流行などで渡しの主流は下流の「馬入の渡し」(東海道)と上流の「田村の渡し」(中原街道・大山道)の方に移った。街道筋の渡しとしての役割は薄れたが、主に左岸(寒川側)にある四之宮の飛び地での農耕作業のための渡船場として昭和26年までは盛んに利用されていたが、昭和30年頃に姿を消した。四之宮とは平塚側の渡し場近くの前鳥(さきとり)神社のこと。

 

分岐点に戻り、田村の渡し跡に向かう。

Img_9295河原不動尊・大山道道標 《地図

道標天明6年(1786)に江戸浅草黒船町の大黒屋が建立したもので、正面に「右大山道」・左側面に「左江戸道」とある。街道沿いのどこからかここに移されたもの。ここは大山道(田村道)と重なる道筋で大山への参詣人、中原街道から東海道や八王子道へ抜ける旅人などの往来で賑やかだったのだろう。

 

Img_9290説明板

 

Img_9297河原橋(目久尻川)

建設中の道路がこの先、相模川沿いを北上するようだ。

 

Img_9302田村の渡し跡あたり(神川橋から)

 

Img_9303大山方向

 

Img_9306田村の渡場跡碑(中央) 【ル-ト地図】の14

左は中村清四郎の歌碑「阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら 声あげにけむ この渡しに」

右も田村の渡し場の説明の石碑で、その右に木の枝葉に隠れて説明板がある。

 

Img_9309説明板

 

Img_9315田村十王堂跡・大山道道標(旧田村十字路) 《地図

ここは八王子道の交差する所で、旅籠などもあり「田村の宿」とも呼ばれていた。十王堂は天文6年(1537)の小田原北条氏と上杉氏の相模原での合戦の戦死者を弔うため妙楽寺の住職が建立した。

 

Img_9312説明板

 

Img_9321田村駒返橋跡 《地図

古くからの馬の継ぎ立場で、ここにも家康が登場する逸話がある。

 

Img_9322由来

 

Img_9325妙楽寺

開基は足利基氏

 

Img_9334一里塚跡碑(鹿見堂橋バス停) 【ル-ト地図】の15

家康が雨宿りした時に鹿を見かけたという鹿見堂は残らず、バス停にその名を留めるのみか。鹿見堂橋と、家康が箸(はし)を地面にさしたら森になったという弘法大師みたいな話の「箸立の森」はここより少し南にあったようだ。

 

旧道は背後の道に入る。

Img_9332説明板

 

Img_9339この先で東から来る四之宮の渡しからの道と合流する。

 

Img_9342合流地点の庚申供養塔道標? 《地図

何が書かれているか判読できず。

 

ここから四之宮の渡し跡へ行ってみる。

Img_9358前鳥(さきとり)神社 地図

もとは「前」神社だったという説もあるようだ。私もてっきり前島神社と思っていた。

 

発掘調査により神社周辺から、多量の墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土。さらに平成2年(1990)には国厨(くにのくりや)と書かれた土器が見つかった。このあたりが平安時代の相模国府跡で、古代東海道が東西に延びていたのだろう。

Img_9357_2説明板

 

Img_9362四之宮の渡し跡へ

風に乗ってくる牛舎の匂いがきつい道を行く。正面が相模川の河川敷。

 

Img_9367四之宮の渡し跡あたり(平塚側) 【ル-ト地図】の16

対岸は旭ファイバーグラスなどの工場群。昔は畑地が開け、渡し船で耕作に行ったそうだ。

 

Img_9364説明板 

 

再び合流点へ戻り、中原御殿を目指す。暑い。

Img_9371真土(しんど)神社

 

Img_9375古道中原街道碑 《地図

 

この先の中原御殿までの道筋ははっきりしていない。

Img_9373説明板

 

Img_9372説明板には「中原街道の昔の面影を最も良く残している」とあるが、もうそんなことはない普通の町並み、住宅地になっている。

 

Img_9378日枝神社 《地図

家康が中原御殿を築く際に、鬼門除けとして修築した。

 

Img_9384高札場跡 《地図

 

Img_9385説明板

 

Img_9386中原御殿跡(中原小学校) 【ル-ト地図】の17

雲雀野御殿、御鷹野御殿とも呼ばれた。明暦3年(1657)に取り払われた。

 

Img_9388碑文

 

Img_9389説明板

 

Img_9390善徳寺山門 《地図

中原御殿の裏門を移築したものと伝えている。

 

Img_9391説明板

 

Img_9396諏訪部神社・大久保公園 《地図

正面に新旧の道祖神の小祠。

 

Img_9404要法寺

ハスの花で埋まる境内。「平塚」の由来となった塚(墓)がある。

 

Img_9407東海道(正面)・右角に平塚宿西組問屋跡 

 

Img_9409東海道上方見付跡、大磯宿方向。前方は高麗山。【ル-ト地図】の18

 

右が平塚宿西組問屋場跡、手前に平塚宿の中心部から平塚駅に向かった。平年より早く、翌日に梅雨明けの発表があった。実際は今日だろう。

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