2011年05月

2011年5月30日

海南駅(JR紀勢本線)・・・金比羅大権現・・・尾崎家住宅・・・子安地蔵堂・・・黒江ぬりもの館・・・黒牛茶屋(名手酒造)・・・温故伝承館・・川端通り・・・浄国寺・・・菊谷(屋)地蔵・・・中言神社・・・黒江坂・・・黒江駅(JR紀勢本線)

 【地図

 熊野古道の続きを歩く前に、紀州漆器のまち黒江を散策した。  

Img_8146黒江の町並み案内図

Img_8089集合住宅か?

Img_8097尾崎家(国登録有形文化財) 

紀州徳川家の地士として、伊勢国大杉山奉行、有田川普請奉行、海士郡代官等を務めた家柄で、座敷は江戸中期の建物。

Img_8094風情ある蔵?

Img_8100池庄漆器店(国登録有形文化財)

丸瓦や、つし二階(低い二階)が特徴の築220年の建物。

紀州漆器は室町時代に起源を持ち、紀州藩の保護を受けて発展した。今は漆を使った伝統漆器と、化学塗料の現代漆器を生産し、日本漆器四大生産地(輪島・山中・会津・黒江)の一つ。

Img_8105黒江ぬりもの館(右)

Img_8107虫籠窓の旧家

Img_8113黒牛茶屋(名手酒造) 

「黒牛の水」で造られた清酒「黒牛」の酒蔵休憩所。

Img_8116

名手酒造

Img_8121温故伝承館

Img_8134木佐商会

隣家(右)との間に「うだつ」(防火壁)がある。

Img_8131木佐商会

Img_8136池慶漆器店

Img_8154のこぎりの歯状の家並み①

江戸時代に黒江の入江を埋め立ててできた平行四辺形の土地に家を建てたためという。家の前にできた三角形の空き地に漆器の材料を干したとか。

Img_8160のこぎりの歯状の家並み②

左側に紀州連子格子の家が並んでいる。 甲州街道の韮崎宿では新しい家も鋸の歯状に並んでいる所があった。

Img_8167浄国寺たいこ堂

「黒江のごぼうさん」で親しまれている寺。

Img_8166義人重根屋伊七の墓(浄国寺)

Img_8164説明板

Img_8169菊屋(谷)地蔵 

海南駅でもらった「黒江散策マップ」では「 菊屋地蔵」で、川端通りの案内板の地図では「菊屋地蔵」となっている。地蔵の小祠にも書かれていないようでどちらか分からず。

Img_8170地蔵さんが3体か? 

Img_8174中言神社参道前

Img_8176中言神社へ

Img_8177由緒

Img_8184黒牛の水・万葉歌碑(中言神社境内) 

紀の国名水の一つ「黒牛の水」は覆い屋の中。万葉の昔は神社のある山のふもとまでが海で、牛の姿をした黒い大きな岩があったことから黒牛潟と呼ばれていたとか。牛と入で「黒江」になったのだろう。

万葉歌碑:「いにしえに 妹とわが見し ぬば玉の 黒牛潟を みればさぶしも」 (柿本人麻呂)

「黒牛潟 潮干の浦を 紅(くれない)の 玉裳裾ひき 行くは誰が妻」(万葉集巻九) という色っぽい風情の歌もあるが、潟は埋め立てられてしまい、こんな情景も遥か昔の夢のまた夢か。

Img_8183つるべ井戸で「黒牛の水」を汲み上げるようだ。

Img_8188黒牛像

Img_8194名手酒造の裏

この近くに「黒牛岩」があったという。

Img_8195黒江坂を上る。 

Img_8199坂の途中の商店

Img_8203坂上近くの家並み

Img_8208出口米店

Img_8210黒江駅へ方へ下って行く。

Img_8211旧家








→「
熊野古道(紀伊路⑥ 塔下王子→逆川王子)」に続く

2011年5月2日

韮崎駅(JR中央線)・・・小林一三生家跡(にらさき文化村)・・・青坂入口・・・一つ谷交差点・国道20号・・・十六石・・・水難供養塔・旧道・・・下祖母石地区・・神明宮・・・赤地蔵(名号塔)・・・祖母石の道祖神場・・(国道20号)・・桐沢橋(釜無川)・・・原山神社・・・小桐橋(南沢川)・・旧道・・・雨宮寺・・・徳島堰・・・八幡神社・・・県道12号・・・唐沢橋(唐沢川)・・宝蔵寺・・・入戸野地区・・山形酒店・・・戸沢橋・・旧道・・・かかしの里・・・徳島堰由来説明板(円野保育園)・・・寺沢橋・・・(国道20号)・・・おはかみち・・妙浄寺・・・上円井交差点・国道20号・・・武川一里塚跡・・・小武川橋(大武川)・(北杜市)・・・宮の脇バス停→韮崎駅

  【ル-ト地図】 

Img_7130小林一三生家跡(にらさき文化村) 《地図

阪急電鉄を始めとする阪急東宝グループの創業者で、宝塚歌劇団などの創始者、美術品蒐集家。

Img_7135青坂(車坂)が右へ七里岩の方へ上っている。《地図

この道は「原路」と呼ばれ、韮崎宿以西の甲州街道が釜無川の流域を北上しているため、しばしば洪水に見舞われ通行不能になった時に、官道として使用された。

Img_7143十六石 【ル-ト地図】の①

武田信玄が治水のため、ここに下の図のように大石を並べたということか? 向うに見えるのがその石の一つか? よく分からない史跡だ。

Img_7140説明板

Img_7142

Img_7145水難供養塔の所で右に旧道に入る。《地図

Img_7149下祖母石(しもうばいし)地区の家並み

Img_7153旧家

Img_7154神明宮・観音堂 《地図

Img_7158地元では「赤地蔵」と呼ばれている名号塔

祖母石一里塚跡はどの辺か?

 

Img_7159祖母石の道祖神場 《地図

道祖神・石尊神・蚕神・九頭竜大神・秋葉大神の碑が並ぶ。昭和34年の水害で流失したので、旧位置に再建された。

この先ですぐ国道20号に合流するが、そこには橋はないのでUターンして桐沢橋で釜無川を渡る。

Img_7167桐沢橋から 《地図

晴れてはいるが折角の山並みも、黄砂でぼんやり霞んで、♪「甲斐の山々 陽に映えて・・・」♪(武田節)の道中とはならなかった。

振り返れば七里岩上には武田勝頼が築いた新府城がある。

Img_7173原山神社 【ル-ト地図】の②

寂れている?荒れている?飾りっ気がなく質素でさっぱりしている?境内だった。

Img_7178双体道祖神

Img_7185徳島堰 

江戸時代に徳島兵左衛門、矢崎又右衛門によって造られた総延長17kmの農業用水路

Img_7222説明板(円野保育園前に設置)

Img_7201宝蔵寺

石段がたわんで、湾曲している。

Img_7208円井逆断層の標識(戸沢橋手前)

ここから西に入って300m位の所にあるようだ。

【ル-ト地図】の③

Img_7211入戸野地区

Img_7214家並み

Img_7218かかしの里のモニュメント

Img_7228この先で、県道に出て横切る。

Img_7234妙浄寺 【ル-ト地図】の④

Img_7232徳島堰を築いた徳島翁の墓

縁起には豊臣方の残党とある。

Img_7233縁起

武川一里塚跡を見落としたようだ。【ル-ト地図】の⑤

Img_7236小武川橋を渡って北杜市(ほくとし)に入る。 【ル-ト地図】の⑥

今回の街道歩きはここで終わりとする。橋を渡った宮の脇バス停から11時31分のバスで韮崎駅に戻り、帰路についた。




→「
甲州街道(台ケ原宿→教来石宿→蔦木宿): 坂道散歩
甲州街道(金沢宿→上諏訪宿→下諏訪宿)」に続く

2011年5月1日

石和温泉駅(JR中央線)・・・石和温泉駅入口交差点・国道411号・・・石和の渡し跡(甲運橋(第2平等川))・(甲府市)・・・川田の道標・・・平等橋(平等川)・・・川田館跡(県立青少年センター)・・・和戸町由来標柱・・・十郎大橋(十郎川)・・・山崎三叉路(青梅街道合流)・・・酒折宮道標・・・山崎刑場跡・・・酒折宮道標(酒折宮入口交差点)・・・酒折宮道標・・・大円川・・・(JR身延線)・・甲府柳町宿木戸跡・・石川家住宅・・・天尊躰寺・・・印傳屋・・・新聞発祥之地碑・・・本陣跡・脇本陣あたり・・・(国道358号)・・国道52号・・・身延みち道標(丸の内郵便局東交差点)・・・穴切大神社・・・荒川橋・・貢川橋・・・上石田のサイカチ・・・県立美術館(芸術の森公園)・・・(甲斐市)・(中央自動車道)・・・竜王新町交差点・旧道・・・道祖神場・・・称念寺・・・第一信州往還踏切(中央線)・・・赤坂・・赤坂供養塔・・諏訪神社・赤坂稲荷神社・・・三軒茶屋跡あたり・・・庚申塔道標・・・自性院・・・下今井上町交差点・県道6号・・・(中部横断自動車道)・・(中央線)・・・泣石・・・道祖神・三界万霊供養塔・・志田一里塚跡あたり・・・船形神社鳥居・・芭蕉句碑・・六反川・・・田畑交差点・・旧道・・・二十三夜塔・・・県道6号・・・塩川橋(塩川)・(韮崎市)・・・韮崎宿・・下宿交差点・・鰍沢横丁・・一橋陣屋跡・・本陣跡・・駒つなぎ石・・雲岸寺(窟観音堂)・・天神町通り・・梅天神社・・韮崎駅(JR中央線)

  【ル-ト地図】  

Img_6828石和温泉駅前の足湯

まだ早過ぎて湯は入っていない。歩く前から入る気はないが。歓楽温泉のイメージしか持っていなかったが今は健全な温泉?に脱却したか。

Img_6829甲運橋(第二平等川)を渡って甲府市に入る。《地図

かつての笛吹川の流路で、石和(川田)の渡し跡。冬場は橋で夏場は舟渡しだった。

Img_6832川田の道標(万延元年(1860))

「右 富士山 大山 東京道」、「東京」は「江戸」とあった上に追刻したもの。親切それとも余計なお世話、お節介か。

Img_6836武田信光の川田館跡(勤労青少年センター) 《地図

武田信虎が躑躅ケ崎館に移るまでの武田氏の拠点地で、今でも「御所曲輪」の地名が残るという。

Img_6838和戸町の家並み

このあたりは古くて立派な造りの家が多い。

Img_6840旧家

Img_6845旧家

Img_6851山崎三差路 《地図

右から青梅街道(国道140号)が合流

Img_6856酒折宮道標

酒折宮~善光寺~長禅寺~舞鶴城公園(甲府城跡)は4月29日に歩いている。

Img_6859山崎刑場跡 【ル-ト地図】の64

身延山58世日環の題目塔や六地蔵など。

Img_6872身延線をくぐると「かねんて」(金手)という枡形道になり、左折しすぐ右折する。そこが甲府柳町宿木戸跡。

Img_6877石川家住宅 《地図

もとは金物屋、糸繭問屋で屋号を河内屋、塗籠土蔵造の江戸時代の代表的な町屋造り。ネットは何のために張られているのか?

Img_6885天尊躰寺

Img_6887大久保長安の墓

長安は国奉行として慶長6年(1601)から翌7年にかけて甲斐一国の検地(石見検地)を行った。
八王子宿には陣屋跡、八王子千人同心屋敷跡があった。墓は島根県大田市大森町の大安寺跡にも、石見銀山(世界遺産)開発の顕彰碑とともにあるそうだ。

境内には「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」の山口素堂の句碑と墓もある。

Img_6886説明板

Img_6891印傳屋

「印伝」とは印度から伝来したという、鹿皮に漆で模様をつけた革の伝統工芸品。天正10年(1582)に上原勇七が独自の技法で印傳屋を創業した。店内を冷かして見る。手頃な値段の皮製の小物もあるが、やはり「かわず飛び出す」だった。

Img_6895本陣富士井屋跡・脇本陣跡あたり 【ル-ト地図】の65

右はワシントンプラザホテル。本陣1、脇本陣1、旅籠21軒の宿場だったが、今は往時の面影も、活気も感じられない通りだ。

Img_6906身延道道標(丸の内郵便局東交差点) 《地図

信州道(甲州街道)と身延道(河内路)の分岐点。

Img_6908昭和50年に復元されたもの。

Img_6912穴切大神社随神門 《地図

湖だった甲府の地を、鰍沢口を切り開き、豊かで肥沃な土地にしたという「湖水伝説」の神社。

Img_6914説明板

Img_6917由緒

Img_6926上石田のサイカチ

地元では夫婦サイカチと呼ぶ。ただ両方とも雌の木だそうだが。

Img_6924説明板

Img_6928「ミレー美術館」ともいう県立美術館のある「芸術の森公園」前を通る。「新富嶽百景」33の所でもある。今日は曇っていて、富士も甲斐の山並みもよく見えず。

【ル-ト地図】の66

竜王新町交差点から右に旧道に入る。

Img_6942道祖神場

まだ球形道祖神が活躍している。

Img_6941説明板

Img_6946くり抜き井戸(称念寺) 《地図

上水道が引かれるまで付近の生活用水として使われ、また、赤坂を行き来した旅人の休憩用の井戸だった。

Img_6945説明板

Img_6950六地蔵(称念寺)

【ル-ト地図】の67

地蔵らしからぬユニークな顔立ちが並んでいる。もとは地蔵院の本尊で、明治には石橋に転用されたという哀れな流転を味わった6人で、それが表情にも表れているように見える。中には顔がつぶされた地蔵さんもいる。 

Img_6948説明板

Img_6958赤坂の長い上りが始まる。左は道祖大神塔 

Img_6960赤坂 【ル-ト地図】の68

右は赤坂供養塔。今は長いが舗装されて傾斜もさほどではないが、昔は赤土の剝き出た、雨の時などは滑りやすい吹きっさらしの坂で、上り下りに苦労したのだろう。旅人の行き倒れも多かったようだ。

Img_6961説明板

Img_6967坂上近くからの眺め

坂上には三軒茶屋があったという。振り返ると晴れていれば富士の姿が大きく見えるようだ。あいにく坂の頂上あたりで、雨が降り出し、風も強くなってきた。坂上近くには「クリーンエネルギーセンター」(県営発電総合制御所)がある。HPには八ヶ岳、富士山、南アルプスの眺望写真が載っている。クリーンで安全なエネルギーで、豊かな自然を守って欲しいものだ。

新富嶽百景』36の「赤坂台地

坂上から下今井の方へ下る。

Img_6978庚申塔道標(右・弘化3年(1846)) 《地図

「庚申 右 市川駿■ 左 甲府江■」、■部分は埋まっている。駿、江だろう。 左のは元禄6年(1693)の古いもので、「庚申」の下が折れたので右の新しいものが立てられたのだろう。

Img_6983下今井の家並み

Img_6987共同ホーム「雀のお宿」

Img_6990自性院

明和2年(1765)以来の石畳の参道。つつじにはまだ早いか。

Img_6999旧家

Img_7000旧家

Img_7008泣石 【ル-ト地図】の69

滅亡に向かう武田氏の道筋での一コマ。

Img_7006_2説明板

Img_7010晴れていればの山並み

Img_7013球形道祖神(文化15年(1818))・三界万霊塔(寛政5年(1793)・その向こうに二十三夜塔

Img_7019志田の家並み

双葉西小学校バス停近く。

Img_7028ヤシの木と調和している?

Img_7031船形神社鳥居(応永4年(1397)) 《地図

どっしり、ずんぐりむっくりした明神鳥居。頭をぶつけそうで自然と頭が下がるので、一礼して社殿に向かう形になるすぐれ物か。このあたりに志田一里塚があったようだが。

Img_7032説明板

Img_7035芭蕉句碑(六反川手前の路地を右に入った所) 《地図

「 昼見れば 首すじ赤き 蛍哉 」 

「昼の蛍」とは恐れ入った。芭蕉の時代には六反川は蛍で有名だったのだろう。

田畑交差点から旧道に入り、再び県道6号に出る。

Img_7050塩川橋を渡る。

増水時には「桶を浮かべて人を渡す」『国志』で、たらい舟みたいな光景が見られたのだろう。

Img_7067韮崎宿の鋸の歯状の家並み

家の前に三角の空き地を置いた。今はちょうど駐車スペースになっているか。①敵が攻めてきた時に、この陰から矢や鉄砲を撃つため。②大名行列が通るときに陰に隠れるので長く座っていなくてもよい、などの説があるようだが、①、②とも一方からは陰になるが、他方からは丸見えになり、どちらの説も説得力に乏しいのでは。

Img_7071鰍沢横丁

円朝の三題噺の落語『鰍沢』もある。

Img_7070説明板

Img_7072韮崎宿の家並み

宿場風情は薄いが、電線がないのがいい。

Img_7076井筒屋醤油店

Img_7083一橋陣屋跡 【ル-ト地図】の70

Img_7082説明板

Img_7090本陣跡(千野眼科前) 《地図

日程の関係で、韮崎宿では諸大名は宿泊せず通過し、甲府宿まで行ったので問屋が本陣を兼ねていた。諸大名といっても甲州街道を通って参勤交代をしたのは諏訪(高島)藩高遠藩飯田藩だけだったが。

Img_7092駒つなぎ石

Img_7099窟観音堂(雲岸寺)

七里岩の南端に穿かれた洞窟と懸崖造の観音堂

Img_7093説明板

Img_7111弘法大師自作の自画像というが、顔立ちがよろしくないように見える?

Img_7113聖観音像

これも大師の作というが・・・。

Img_7112説明板

Img_7104洞窟内にも石仏が並ぶ。洞窟は反対側に通じている。

Img_7119梅天神社 《地図

ここも道に斜めに建っている。

Img_7121平和観音(昭和36年建立・関東三観音の一つ) 《地図

「ふくよかだねえ」、「何が」、「顔立ちだよ」←嘘

Img_7124韮崎駅

長野県内強風のため、中央線は遅れていた。

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