2012年05月

2012年5月31日

伊勢原駅(小田急線)・(神奈中バス)→大山ケーブルバス停・・・もみじ坂・・こま参道・・・茶湯寺・・・雲井川(鈴川)・・・八意思兼神社(追分社・男坂、女坂分岐点)・女坂・・・弘法の水(女坂の七不思議①)・・・子育地蔵(七不思議②)・・・爪切り地蔵(七不思議③)・・・逆さ菩提樹(七不思議④)・・・前不動(来迎院)・龍神堂(八大堂)・・・大山寺・・・無明橋(七不思議⑤)・・・潮音洞(七不思議⑥)・・・眼形石(七不思議⑦)・・・女坂道標(男坂合流地点)・・大山阿夫利神社下社・・登拝門・・・夫婦杉・・・本坂・・・ぼたん岩・・・天狗の鼻突き岩・・・十六丁目の追分碑・・・富士見台(来迎谷)・・・ヤビツ峠分岐・・・大山山頂(1252m)・大山阿夫利神社本社(奥の院)・・・大山の肩・・・不動尻、広沢寺温泉分岐・・・見晴台・・・八大龍王社(二重社)・二重滝・・・大新稲荷神社・・・女坂分岐点・八大坊上屋敷跡・・・男坂・・・追分社(女坂合流地点)・・・こま参道・・・大山ケーブルバス停

  【ル-ト地図

 大山登山で大山街道、矢倉沢往還歩きを締めくくる。

  大山街道(愛甲石田駅→こま参道入口)』からの続きです。 

Img_8614もみじ坂(左)・こま参道(右)

もみじ坂が旧道で石段だったが、関東大震災で崩れてしまい、こま参道を造ったそうだ。

Img_8617茶湯寺(ちゃとうでら・涅槃寺) 《地図

本尊は右手を枕にして横臥する、等身大の釈迦涅槃像。「百一日参り」の寺として知られ、茶湯供養をした後で、不思議と故人とよく似た人に会うか、似た声を聞くという伝えがある。参道に立つ石地蔵の光背の一つに○キの刻字があり、隠れキリシタンのものではないかともいう。

Img_8623こま参道

大山の土産物、「大山こま」のタイルが埋め込まれている。まだ8時前で参道沿いの店は開いていない。

Img_8790八意思兼神社(追分社) 《地図

祭神は高皇産霊尊の子とされる思兼神で、男坂(右)、女坂(直進)分岐点の追分社。

Img_8631女坂を上る。【ル-ト地図】の30

「女坂の七不思議」が次々に現れる。

Img_8633弘法の水(七不思議①)

弘法大師が杖で突いたら清水が湧き出したという、いつものパターン。

Img_8637子育地蔵(七不思議②)

いつの頃からか、童子の顔になったという。「若返り地蔵」と呼んだ方がいいかも。

Img_8639爪切地蔵(七不思議③)

弘法大師が、一夜のうちに爪で彫ったという、これもよくあるお話。

Img_8641逆さ菩提樹(七不思議④)

根本が細く、上に行くほど太くなっている菩提樹で、逆さに生えたように見えるというが、2代目だから・・・。

Img_8643前不動(来迎院)、左は龍神堂(八大堂)

Img_8647龍神堂説明板

Img_8656大山寺

 【ル-ト地図】の31

天平勝宝7年(755)、奈良東大寺の別当良弁僧正の開山。本尊は願行上人が文永11年(1274)に鋳造した鉄の不動明王

Img_8655説明板

Img_8650宝篋印塔

右に3遍廻ると功徳があるそうだ。

Img_8651説明板

Img_8653かわらけ(土器)投げ

投げた「かわらけ」が下の福輪(直径2.5m)をくぐると幸運をもたらすという。

Img_8657無明橋(七不思議⑤)

話をしながら渡ると下に落ちたり、落し物や忘れ物をするという。

一人なのでむろん無言で渡ったが、帰りに伊勢原駅のコインロッカーに入れた物を忘れて電車に乗ってしまった。途中で気づき取りに戻るはめとなり、どっと疲れが増した。

Img_8661潮音洞(七不思議⑥)

この窟に近づいて耳を澄ますと、遠くの海の潮騒が聞こえてくるとか。試しはしないので真偽のほどは分からず。

Img_8662眼形石(七不思議⑦)

人の目の形をしたこの石に手を触れて祈ると目の病気が治るという。最近、左目の調子が悪いので石に触って祈ったが、今だ快癒のきざしなし。

Img_8666女坂でもきつい上りが続く。この上で男坂からの道と合流する。

Img_8668女坂道標(文化5年(1808)) 《地図

男坂合流地点で下社への上りの石段となる。道標は女坂の下りを示している。

Img_8673大山阿夫利神社下社

 【ル-ト地図】の32

Img_8675下社(拝殿)

延喜式内社で、関東総鎮護の神。山頂の本社に祀る三神をここで礼拝する。祝詞の奏上や神符、御守りなどはここで授与される。

Img_8676説明板

Img_8679片開きの登拝門をくぐり、急な石段を上る。

ここは標高700mくらいで、山頂(1252m)まではきつい上りが待っている。

Img_8680説明板

Img_8682石段上から

Img_8684まだまだ険しい道が続く。もとは修験の道で、ちゃらちゃらしたハイキングコースとは違い険しいのは当然か。

Img_8685前の人につかず離れずのペースで上って行く。

Img_8689夫婦杉

間に枝が一本ある。「間男杉」・「三角関係杉」のように見えるが考えか。

Img_8692本坂の長い上り。 【ル-ト地図】の33

Img_8704ぼたん岩(14丁目)

足元などに見られる球体の岩が、牡丹の花のように見えるからというが、そう言われても見えない。

Img_8707天狗の鼻突き岩(15丁目)

穴が開いているからこれはよしとしよう。

Img_8714十六丁目の追分碑(享保元年(1716)初建)

強力(ごうりき)が麓から担ぎ上げた高さ3m68cmの道標。本坂→下社と、かごや道→下社の追分のことだろう。かごや道は蓑毛に通じている。

Img_8717富士見台(来迎谷)から富士も下界も見えず。

ここは20丁目で標高1062m

広重の「不二三十六景 相模大山来迎谷

Img_8727乳白色の中を山頂を目指す。

Img_8728鳥居をくぐれば山頂だ。(28丁目)

Img_8733大山山頂(1252m)・阿夫利神社本社(奥の院) 【ル-ト地図】の34

後日知ったのだが、前日に皇太子がほぼ同じルートで大山登山を楽しんだそうだ。昨日は好天で山頂からの眺望も開けたようだが、かち合わなくてよかった。

Img_8735山頂は湿気もあり、汗で濡れた体は寒い。そこそこに見晴台へ下る

Img_8736グレーチング階段

鹿よけの植生保護柵。

Img_8737説明板

Img_8738木の階段が長く続く。

Img_8740大山の肩

 【ル-ト地図】の35

この先で不動尻・広沢寺温泉への道が分岐する。

Img_8746小さな鎖場

Img_8747馬の背?

Img_8749見晴台に着く。

Img_8752眺めはイマイチ

Img_8757崩落個所を抜ける。

Img_8760八大龍王社(二重社) 《地図

手前の2本の杉が「呪いの杉」の後継者か。

Img_8764説明板

Img_8767二重滝

 【ル-ト地図】の36

滝壺のほとりにあった「丑の刻参り」の「呪いの杉」は震災(台風?)で倒れてしまったそうだ。「人を呪わば穴二つ」で、呪った者・呪われた者、そして呪いをかけた杉までも墓場へ行ってしまったか。墓穴は三つ必要のようだ。

Img_8775女坂分岐地点

女坂は女坂道標(右端)から下る石段で、さっき上って来た道。男坂は左の平坦な道だが、この先で急な石段の連続となって追分社まで続く。

Img_8781男坂を下る。 【ル-ト地図】の37

蹴上げ・踏み面とも不規則な石段で、一区切り下ってほっとする間もなく、またどこまでも続くような感じだ。

Img_8782見上げる。こんな石段の連続だ。

Img_8784どこまで続くやら。

Img_8786追分社(八意思兼神社)の上に出た。

Img_8787追分社から振り返る。ここから女坂の道と合流し、こま参道を通り、大山ケーブルバス停に向かった。

2012年5月21日

 南御殿場駅(JR御殿場線)・・払堰踏切・・・県道394号・・・西方寺・・・大坂・・・山神社・・・岩神橋(黄瀬川)・・(裾野市)・・・岩波不動尊・・・岩波踏切(御殿場線)・岩波駅・・唯念名号碑・・・国道246号・・・県道394号・・・赤子神社・・・観音堂・・・馬頭観音・新震橋・・・蓮光寺・・・佐野北交差点・・・大畑橋(黄瀬川)・・・五竜の滝(黄瀬川)・・・県道394号・・・馬頭観音・・・(東駿河湾環状道路)・・・鮎壺の滝(黄瀬川)・・・(東海道新幹線)・・・新寿橋(黄瀬川)・(国道1号)・・・天理教踏切(御殿場線)・・・箱根裏街道踏切(東海道線)・・・東海道合流地点(下石田交差点)・・下石田バス停→三島駅(東海道新幹線)

 御殿場線沿いを南下して行く。緩やかに下っているので楽で、見所も少なく早足で進む。途中、2つの滝を眺めて二休みしただけで5時間もかからず、東海道との合流地点に着いた。

  【ル-ト地図】  

Img_8458県道と御殿場線の東側の静かな道を進む。《地図

 

Img_8461田園風景も残っている。

 

県道394号に出て南下する。

Img_8482大坂を下る。《地図

緩やかに長く下って行く。昔はもっと急坂だったのか。

 

Img_8488山神社

 

Img_8491隣を流れる黄瀬川は、下流で五竜の滝、鮎壺の滝となって落ちている。

 

岩神橋(黄瀬川)を渡って、すぐ右に入って行く。

Img_8503岩波不動尊 《地図

堂内に「岩波不動尊和讃」の額が掲っている。

 

Img_8508深良用水説明板(岩波駅前)

 

Img_8510唯念名号碑(岩波駅そば)

 

Img_8515旧家

 

Img_8518赤子神社 【ル-ト地図】の12

小豆の入らない「白おこわ」を妊婦に配るそうだ。これを食べれば元気な赤子の誕生、間違いなし。

 

Img_8528観音堂 

左の地蔵は道標になっている。

 

Img_8526「右ハ むらミち 左ハ甲州ミち」か?

 

Img_8533馬頭観音(新震橋(しんゆるぎばし)の所)

往来の邪魔になったのか、危うい所に移されてしまった。大きく髪を結い、長い衣をまとったイケメン風な観音さんだが、気づいて見る人も少なく可哀そうだ。

 

Img_8542旧家

 

佐野北交差点で右折し、五竜の滝へ行く。

Img_8557五竜の滝(雄滝) 【ル-ト地図】の13

高さは12mだが流量は豊富だ。

 

Img_8563雌滝の2本は細く見にくい。

 

Img_8556説明板

少し上流の中央公園には、旧植松家住宅(国重文)が移築されている。

 

 佐野交差点で街道に戻る。

Img_8575馬頭観音道標 《地図

ここのは小さな流れの上だが、道路上にある。

 

Img_8574「右ぬまず  左三しま」で、ちゃんと現役の道標だ。まあ見る人はいないだろうが、移したりするなよ。

 

Img_8586鮎壺の滝 【ル-ト地図】の14

滝と呼ぶには高さ不足の感じだが、市街地の中なのでよしとすべきか。下から見上げればよかったかも。

 

Img_8585説明板

源頼朝の召し出しを拒んでこの滝に身を投げた亀鶴姫は、東海道沼津の潮音寺に亀鶴観音として祀られている。『東海道(三島宿→沼津宿

 

Img_8599東海道新幹線をくぐる。《地図

「御殿場街道」で、矢倉沢往還・足柄街道の名は忘れ去られてしまったか。

 

 上石田南交差点の先で、国道から左に入って行く。

Img_8603天理教踏切(御殿場線)を渡る。《地図

名のとおり、踏切向うが天理教の建物。

 

Img_8606箱根裏街道踏切(東海道線) 《地図

矢倉沢往還、足柄街道、古東海道ではなく、裏街道とはねえ。東海道が箱根越えになるまでは、表街道だったのだが。まあ、人生の裏街道を歩いて来た、うらぶれた男には似合いの名か。

 

Img_8610東海道合流地点(下石田交差点) 【ル-ト地図】の15

2年前に東海道歩きで通過した所だ。その時はここが矢倉沢往還との追分とは知らなかった。

 

Img_8613東海道沼津宿方向

自動車の曲がる方向が矢倉沢往還。下石田バス停から旧道経由三島駅のバスに乗った。バスは旧東海道の潮音寺、黄瀬川橋、八幡神社、玉井寺、千貫樋など見覚えのある所を通って三島駅に向かった。『東海道(三島宿→沼津宿)

2012年5月20日

新松田駅(箱根登山バス)→竜福寺前・・関本宿・・龍福寺・・県道78号(足柄街道)・・問屋跡・・高札場跡・・(お君塚入口)・・関本地蔵尊・・上宿の道祖神・・坂本駅跡・・・化粧坂・白地蔵・・旧道(足柄古道)・・・足柄神社・・観音堂・・・東山バス停(県道78号)・・・旅籠通り・・矢倉沢表関所跡・・・関場交差点(県道78号)・・・前田橋(内川)・・・矢倉沢裏関所跡・・・県道78号・・・家康陣馬の跡・・・足柄古道入口バス停・足柄古道・地蔵・・・矢倉沢定山城跡・・・源頼朝のひじ松(跡)・・・長者橋・・・夕日の滝・・・金太郎生家跡・・・地蔵堂・・・相ノ川橋・・・見晴台バス停・・・源頼光の腰掛石・・・足柄峠(首供養塚・足柄峠一里塚跡・足柄の関所跡・聖天堂・笛吹塚・足柄城址)・・金太郎富士見ライン・・・六地蔵・・・芭蕉句碑・足柄古道・・・赤坂・・馬頭観音・・・県道78号・・・竹之下合戦標柱・・伊勢宇橋(地蔵堂川)・・・唯念大名号塔・・・竹之下一里塚跡・・・浅間坂・・・嶽之下神社・・・馬喰坂・・・竹之下踏切(御殿場線)・足柄駅・・・千束橋(鮎沢川)・竹之下合戦跡碑・・・常唱院・・・足柄駅入口交差点・・有闘坂・・・有闘坂上一里塚跡・・県道78号(足柄街道)・・戦跡釜沢碑・・・戦跡陣場碑・・・足柄橋(東名高速道路)・・・(御殿場市)・・・唯念名号塔(宮沢橋バス停)・・・深沢城址入口碑(城入口バス停)・・・高根橋(抜川)・・・杉原交差点・・・御殿跡入口標柱・・・穂見神社・吾妻神社・御殿場発祥の地碑・・・二枚橋古墳・浅間神社・・・二枚橋(鮎沢川)・市役所北交差点(国道138号)・県道394号・・・秋葉神社・・・新橋浅間神社・・・永原大神宮・・・(東名高速道路)・・・カマド踏切(御殿場線)・・かまど(竈)地名由来碑・・・かまど神社踏切・・諏訪神社・・玄清寺・・南御殿場駅(JR御殿場線)→沼津駅

  【ル-ト地図

  関本宿を過ぎ、白地蔵の先で足柄古道に入り足柄神社に寄る。矢倉沢関所跡から上って、のどかな金太郎の里で夕日の滝を眺めて一息ついてから足柄峠へ向かう。車道をいくども横切って足柄古道が残っている。
 峠からはしばらく金太郎富士見ラインを下り、再び足柄古道の山道となって下って行くと竹之下地区で、竹之下合戦ゆかりの所が多い。
 有闘坂あたりまでが矢倉沢往還と足柄古道のハイライトだろう。後は南に御殿場線沿いの県道を緩やかに下るのみで見所は少ない。南御殿場駅まで進み沼津駅に向かった。  

Img_7998龍福寺 【ル-ト地図】の6

本尊は鎌倉時代の作の木造阿弥陀如来坐像。義民下田隼人の墓がある。

 

Img_8001関本宿武蔵屋(問屋・旅籠・醤油醸造・脇本陣跡)跡

右の塀上に「関本宿を語る会」の説明板が立っている。

 

Img_8002説明板

関本宿は「坂の下」にあったことから古代には坂本の名で呼ばれ、足柄関が設置されて以後、関本になったという。矢倉沢往還と小田原からの甲州道が合流する宿場として栄え、道了尊大雄山最乗寺の門前町としても繁栄した。旅籠などが立ち並ぶ街道の裏には水路があり、継ぎ立ての馬が水を飲んだり、馬を洗ったりしていたという。

 

Img_8006高札場跡

右に「矢倉沢往還 関本宿」の標柱。

この先に小田原藩主が宿泊の時は本陣に指定された旅籠福田屋跡がある。殿様が泊まる時には、白砂糖を混ぜただんごを、4枚の奉書を敷いた白木の三方の上に置いて差し出したという。

 

Img_8011お君塚案内板

お君とは旅籠の遊君(遊女)で、特定の個人名ではないようだ。「関下(関本)の宿をすぐれば、宅を並ぶる住民は人を宿して主とし、窓にうたふ君女は客をとどめて夫とす。あわれむべし」『海道記』より

 

Img_8016関本地蔵(道路向うの小祠)

 

Img_8018関本地蔵(子育延命地蔵)

 

Img_8017説明板

 

Img_8019上宿の道祖神

双体道祖神が2体と五輪塔

 

Img_8022坂本の駅跡 《地図

駅馬24匹を常備した古代の足柄道(古東海道)の駅跡。右の総合グランドが駅舎跡と推定される。

 

Img_8023説明板

 

Img_8033化粧坂

白地蔵(右)に由来する坂名。

 

Img_8034白地蔵 【ル-ト地図】の7

うどん粉を塗りつけられ真っ白な化粧地蔵。

 

Img_8036説明板

 

Img_8041白地蔵の先で右へ足柄古道に入る。 《地図

 

Img_8193説明板

足柄峠に近い見晴台バス停に設置のもの。

 

Img_8047足柄神社近くから

 

Img_8049足柄神社

足柄峠の「坂の神」で、「坂道散歩」の守護神だ。

 

Img_8052説明板

 

Img_8051石祠群

 

Img_8050説明板

 

Img_8056観音堂

足柄明神(現足柄神社)の本地仏堂だった。

 

Img_8055説明板

 

Img_8065起伏のある気分のいい道を行く。

県道はずっと左下を通っている。

 

Img_8067東方の眺め

 

Img_8069分岐には「足柄古道→」の標識が立ち、迷うことはない。

 

 

Img_8079猪よけネットを開けて進む。

 

Img_8081矢倉岳(870m)

 

Img_8088県道へ下り、斜めに横切って関場の集落へ入って行く。

下は東山バス停。

 

Img_8192矢倉沢関所跡→頼朝のひじ松→夕日の滝→地蔵堂→足柄峠→六地蔵から足柄駅へと進んで行く。

 

Img_8094矢倉沢表関所跡末光家 【ル-ト地図】の8

前は関場の旅籠通りで、旅籠、米屋、油屋、豆腐屋などが軒を連ね、大和屋、江戸屋、立花屋、車屋、釜成屋などの屋号が残っているそうだ。

 

Img_8093説明板

 

Img_8099矢倉沢裏関所跡石村家 《地図

矢倉沢本村から矢倉岳の西尾根を越え、山北の谷峨関所へと抜ける裏道をおさえるための番所で、旅人を通すことはなく、村民が田畑や山へ行く時にだけ門を開けたという。

 

Img_8098説明板

 

Img_8113家康陣馬の跡

 

Img_8112説明板

 

Img_8114足柄古道入口バス停 《地図

左に上って行く。すぐ先に地蔵が立つ。

 

Img_8117歩きにくい道となって、右へ車道に下りる。

 

Img_8119遊歩道らしき所が所々に作られている。

 

Img_8120矢倉沢定山(じょうやま)城跡(右)

大森信濃守氏頼の築城とされる。定山は城山の転訛で、矢倉沢城跡と呼ぶべきとも。

 

Img_8121説明板

 

Img_8123頼朝のひじ松

ガードの切れ目に説明板と標識があるので下って行ったが、道路の上からでも見られる。

 

Img_8122説明板

 

Img_8126ひじ松(2代目)

枝でなく、木全体が傾いてしまっている。

 

Img_8130道路から

松は2本ある。その下に小祠がある。そこまで行ける。

 

Img_8137夕日の滝へ向かう途中の鏡のような棚田

 

Img_8160猪の毛皮

肉は猪鍋で食べられてしまったか。

 

Img_8142♪「金太郎」♪歌碑

 

Img_8152_2夕日の滝 【ル-ト地図】の9

高さ23m、幅5m、金太郎の産湯の水という。

 

Img_8145説明板

 

Img_8162金太郎生家跡地

坂田金時は九州の賊を征伐するため築紫へ向かう途中、作州路美作の勝田壮(現在の岡山県勝央町)で熱病で死去したという。『出雲街道⑦』 隣の静岡県小山町も生誕地の一つで、生家跡に金時神社があり、勝央町と姉妹都市となっている。

 

Img_8165地蔵堂(正面左)

木造地蔵菩薩立像は神奈川県の重文。

 

Img_8170地蔵堂の所を左折し足柄峠へ 《地図

下は県道で車、バイク、自転車、ランナーも通る。

 

Img_8171茶畑が広がる。静岡県に入ったようだ。

 

Img_8177古道が所々に残っている。

 

Img_8196石畳道もある。

 

Img_8200源頼光の腰掛石の説明板だが消えていて読めない。

腰掛石はどれか?この小さな石ではあるまい。

 

 すぐ先で足柄峠に着く。

Img_8204首供養塚

 

Img_8205説明板

 

Img_8206足柄峠一里塚跡

 

Img_8208足柄関所跡

右端は「おじぎ石」で、旅人はこの石に手をついて、お辞儀をし手形を差し出した。甲州街道の小仏関所跡にも「手付石」・「手形石」がある。

 

Img_8209説明板

 

Img_8215標高759mだが、それほどの高さは感じない。

 

Img_8221説明板

 

Img_8214足柄峠年表

足柄峠を行き来した倭建命以下そうそうたる面々の中に、『更級日記』の菅原孝標の女(むすめ)もいる。彼女が足柄峠を越えて京に向かったのは13才の時か。「足柄山といふは、四、五日かねて恐ろしげに暗がり渡れり。やうやう入り立つ麓のほどだに、空の気色、はかばかしくも見えず。えもいはず茂り渡りて、いと恐ろしげなり」と記す。

また年表には記さぬが、恋人、妻子、家族と別れ、筑紫へ防人として赴く、名も知れぬ東男(あずまおのこ)が越えて行った峠でもある。「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」(万葉集第二十巻)・「足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く・・・・・」(万葉集第二十巻

 

Img_8213倭建命の伝承

 

Img_8217聖天堂

日本三体聖天尊(浅草の待乳山聖天・奈良県の生駒聖天(宝山寺)の一つの足柄聖天で、本尊は弘法大師が自筆の「足柄峠」の額と共に奉納したといわれる大聖歓喜双身天石像(1.8m・秘仏)で、夫婦和合、商売繁盛、縁結び、厄除にご利益あり。

 

Img_8222笛吹塚

新羅三郎義光が後三年の役で奥州へ赴いた時点では、豊原時秋はまだ生まれていない。まあ伝承、逸話なんかはいい加減なものが多いから、目くじらを立てることはないが。

 

Img_8223説明板

 

Img_8227足柄城址から 【ル-ト地図】の10

ちょうど雲が切れかかった。「目にかゝる 時やことさら 五月富士」、芭蕉が見たのもこんな富士だったか。

 

しばらく車道(金太郎富士見ライン)を下る。

Img_8240芭蕉句碑

「目にかゝる 時やことさら 五月富士」

 

Img_8241説明板

 

 この向い側から足柄古道に入って下る。

Img_8242足柄古道入口

 

Img_8248歩きにくい所もある。途中、上って来る親子連れ、2組とすれ違った。

 

Img_8250倒木が道をふさぐ。

 

Img_8251赤坂

この先の舗装道路に出る手前右に馬頭観音。

 

Img_8252馬頭観音

 

Img_8253説明板

この道は小田原から甲斐へ通ずる、「塩の道」、「甲州道」でもあった。

 

Img_8255竹之下合戦標柱(右)・伊勢宇橋(先)

 

Img_8258説明板

 

Img_8262唯念名号塔(天保10年(1839))

高さ3m80cmで、一字に一斗の米が入るとか。

 

Img_8261説明板

 

Img_8267竹之下一里塚跡あたり

ここを直進する。 《地図

 

Img_8268林間コースを行く。

もとは松並木だったが、戦時中に松根油(航空機燃料)を採ったため失われてしまったそうだ。

 

Img_8271左に2体の馬頭観音(天保6年(1835))と宝暦?年)

 

Img_8275浅間坂を下る。

途中の嶽之下神社は、合祀される以前は浅間神社だった。

別名を「自校坂」で、「昭和16年東京目黒の陸軍輜重兵学校の自動車隊が足柄峠越えを強行するため、急峻狭小の道路を拡張整備しながら、悪戦苦闘の末、25台の軍用トラックを四昼夜をかけて突破したことから、其の後地元の人々はその栄誉をたたえ、通称浅間坂を自校坂と云うようになった」(「足柄史跡を守る会」の説明。

 

Img_8279嶽之下神社 《地図

足柄峠の下で「嶽の下」→「竹之下」だそうだ。

 

Img_8283竹之下地区に下る。

 

Img_8284双体道祖神が2基か?

 

Img_8285馬頭観音など

左端の馬頭観音は道標になっている。

 

Img_8290道標(文化?年)

「左 小田原 大山 道」か?

 

Img_8291馬喰坂(ばくろうざか)となってさらに下る。

 

Img_8296坂上方向を振り返る。

左に坂標と説明板

江戸時代の竹之下は物資の荷継場で牛や馬の需要が多く、その売買や周旋をする商人(馬喰)が住んでいた。

南に少し行くと古刹、大雄山宝鏡寺がある。

 

Img_8300足柄駅

無人駅の駅舎で一休み。

 

Img_8303千束橋(ちづかばし・鮎沢川)を渡る。《地図

新田軍が退く際に橋を落としたので、足利軍が薪を千束投げ入れて橋の代わりにして渡ったという。

 

Img_8310竹之下合戦跡(建武2年(1335))碑(右端)

 

Img_8314常唱院

庭の桜が見事らしい。日蓮も泊まった寺という。

 

Img_8316道祖神?と馬頭観音の祠

ここは「宿」という地区名で、江戸時代には継立場だった。「港屋」・「よしのや」などの屋号が表示されている。源頼朝が上洛の時にこの地に泊まったという。

 

Img_8322有闘坂の上りとなる。

 

Img_8344分岐点 《地図

ここを折り返すように左折するのだが直進してしまい、東名高速に出てしまった。大きく回って再びここへ戻る。直進する道も甲州へ通ずる古い道という。この先で東名高速にぶつかり分断されているが。【ル-ト地図】も歩いたとおりに記載してある。

 

Img_8338茶畑

ここは甲州へ通ずる道沿い。

 

Img_8341東名高速上からの眺め

 

Img_8345分岐点に戻る。

有闘坂は左に大きくカーブして上るのだった。 【ル-ト地図】の11

 

Img_8343「竹之下合戦有闘坂」の倒れた標柱

竹之下合戦で官軍(新田義貞軍)が大友・佐々木軍に挟撃され奮戦激闘したところと伝える。

 

Img_8353有闘坂上一里塚跡 《地図

 

Img_8355説明板

 

Img_8356竹之下合戦戦跡釜沢

「湧き水があり、官軍が兵糧を置いた場所」? 

道を挟んで小山町の「あしがら温泉」がある。風呂に入りながら富士山を眺められるようだ。その先に官軍の先手が布陣した「陣馬跡」がある。

 

県道78号(足柄街道)を進み、足柄橋で東名高速を渡る。

Img_8365御殿場市に入る。

 

Img_8379唯念名号塔(宮沢橋バス停)

 

Img_8384深沢城跡入口碑 《地図

「これより300m」とあるが、けっこう疲れてきたのでパスした。

 

Img_8383田んぼに雄姿を落とす富士

 

Img_8388地蔵堂?

ここは下宿バス停

 

Img_8392枡形の名残りか?

 

Img_8399御殿跡入口標柱 《地図

 

Img_8401吾妻神社

 

Img_8405御殿場発祥の地碑(吾妻神社境内)

 

Img_8406説明板

 

Img_8415二枚橋古墳(御殿場小学校と浅間神社の境) 《地図

「古墳(前方後円型)二枚橋丘陵」の石柱が立つが、この古墳の詳細については分からず。

 

 この先で二枚橋(鮎沢川)、市役所北交差点(国道138号)を渡る。

Img_8431広い間口の岩田金物店

 

Img_8436新橋浅間神社 《地図

建久4年(1193)、源頼朝が富士の巻狩りの折、勧請したとも伝える。

 

Img_8447馬頭観音・地蔵(カマド踏切を渡った所) 《地図

道路に背を向け、線路の方を向いて立っている。電車の安全を見守っているか。

すぐ先に地名由来碑がある。

 

Img_8445かまど(竈)地名由来碑

 

Img_8444源頼朝ゆかりのかまど跡の石?

 

Img_8446諏訪神社

「かまど神社」と呼ばれているのか。いぼとりに霊験があるようだ。

無人駅の南御殿場駅から沼津駅に出てもう一泊する。

2012年5月19日

伊勢原駅(小田急線)・・・咳止地蔵・せきど橋(市米橋・渋田川)・市米橋交差点(大山街道追分)・・・耕雲寺・庚申塔道標・・・伊勢原大神宮・・・伊勢原交差点(矢倉沢往還交差地点)・国道246号・・・板戸八雲神社・・・庚申塔道標・道祖神(中屋敷交差点)・・・貞晃寺・・・神戸橋(鈴川)・・・白笹稲荷・・・庚申塔道標・・・山王橋(栗原川)・・・桜坂交差点・・・桜橋(善波川)・・・箕輪駅跡・神明神社・・・坂東橋(東名高速跨線橋)・・・さくら通り・・・善波橋(善波川)・・・愛鶏供養塔・地蔵祠・・・導水トンネル跡・・神代杉(跡)・・・夜泣き石・・・国道246号へ迂回・・・旧道(新善波トンネル手前)・・・善波トンネル・・・善波峠・・御夜塔・・・秦野国際乗馬クラブ・・・国道246号・・・入船橋(金目川)・馬頭観音など・・秦野宿・・庚申塔道標・・馬車鉄道軽便鉄道説明板・・本町四つ角・・上宿観音堂・・秦野橋(水無川)・・・庚申塔道標・道祖神・・・矢倉沢往還碑・・・平沢西交差点・・・(小田急線踏切)・・・小田原道分岐(稲荷神社前交差点)・曲松の道標・稲荷神社・・・二つ塚・・・沓掛坂・・・沓掛不動道標・茶屋跡・渋沢6号踏切(小田急線)・・四十八瀬川(徒歩渡り)・・国道246号・・・蛇塚交差点・旧道・・・渋沢8号踏切・・・河内橋(四十八瀬川)・・・滝島橋・・・(東名高速)・・・小田原道合流地点あたり・・・(国道255号)・・・町屋踏切(JR御殿場線)・・・酒匂堰・・・川音川・酒匂川・十文字の渡し跡あたり・飛び石渡り(ピョンピョン橋・川音川)・・・(小田急線ガード)・・・道標・・・寒田神社・・・十文字橋(酒匂川)・・・大ケヤキ跡(十文字の渡し跡あたり)・・・蓑笠之助陣屋跡・・吉田神社・・吉田神社入口交差点・・・大長寺・・・(県道78号)・・・柳橋(要定川)・・・宮台地蔵堂・・・大松寺・・・橋場橋(洞川)・・・福田寺・道標・・・旧貝沢橋(貝沢川)・・・竜福寺交差点・関本宿・旅籠富士屋跡・竜福寺前バス停→新松田駅

  【ル-ト地図

 伊勢原市のせきど橋を渡った市米橋交差点で大山街道と分かれ、善波峠を越え、十文字の渡しで酒匂川を渡り、矢倉沢関所から足柄峠を越えて沼津で東海道と合流する矢倉沢往還・足柄古道を3日間で歩く。

 今日は新松田駅までの行程を予定していたが、沓掛不動の先の四十八瀬川を渡ることができ、時間と距離が短縮され関本宿の大雄山駅近くまで行くことができた。  

Img_7606大山街道追分 【ル-ト地図】の①

矢倉沢往還は直進、大山街道は右折。せきど橋(市米橋)は渋田川の流れを堰き止めて変え、新田開発を行った所。手前を右に入った所に「咳止地蔵」の祠がある。

 

Img_7612追分道標(享保13年(1728))

「左おふや満みち 右ひなたみち」で、今は耕雲寺境内に移されている。

 

Img_7609説明板

 

Img_7738矢倉沢往還説明板(善波峠に設置のもの)

 

Img_7607耕雲寺

 

Img_7621伊勢原大神宮 《地図

外宮(右)・内宮(左)で、「外宮先祭」で外宮から参る。

別当寺として普化宗の神宮寺(虚無僧寺)があったという。その建物は恢立館(かいりゅうかん)と名づけられ、伊勢原小学校の基になった。(『史跡と文化財のまち いせはら』

 

Img_7620説明板

伊勢原交差点で『大山街道(田村道)』と交差する。

Img_7624板戸八雲神社

廃仏毀釈でも釣鐘は残ったようだ。

 

Img_7625中屋敷交差点

松木酒店の前に庚申塔道標と道祖神。(ポストの右)

 

Img_7628「?大山道 ?・・・」

 

Img_7635白笹稲荷

秦野市の白笹稲荷神社の分社か?

 

Img_7639庚申塔道標(山王橋の手前)

 

Img_7641「左 金目道」で、坂東三十三観音7番の金目観音堂のことだろう。

 

桜坂交差点の手前で左に入って行く。

Img_7652箕輪駅跡(神明神社前) 【ル-ト地図】の②

古東海道の駅跡

 

Img_7654説明板

 

Img_7655神明神社沿いに進み、坂東橋(東名高速跨線橋)を渡る。《地図

 

Img_7659大住台地区のさくら通りを抜けて行く。

 

Img_7664善波峠への上り口 《地図

左の小祠に地蔵と愛鶏供養塔(昭和17年)

 

Img_7668分岐点に「太郎郷さんぽ 太郎のちから石」への表示板

鎌倉時代の武将善波(ぜんば)太郎重氏が、下駄で踏んだ窪みのある石があるようだ。善波峠へは直進する。

 

善波太郎は若い頃、召使と通じたことから父の怒りにふれ、善波の館を出て流浪の旅に出た。父亡き後の所領と館は悪臣たちに奪われてしまった。重氏は三島明神、諏訪明神(子易)、石尊権現(大山)の助けにより悪臣どもを滅ぼし、善波の館の主になったという。(『史跡と文化財のまち いせはら』)

 

Img_7672気分のいい道を行く。

 

Img_7673右前方に神代杉(うもれ木)の説明板

 

Img_7674説明板

神代杉へはここから右へ林の中を善波川へ下る。

 

Img_7677導水トンネル跡

手掘りの農業用導水トンネル。

 

Img_7676説明板

 

Img_7680神代杉(跡)あたり

向う岸に標柱が立っているが、神代杉らしき物は見当たらない。流れの中にあるというが。うもれ木を削って持ち去る人もいたとか。

 

Img_7678説明板

 

Img_7682左に矢倉沢往還の説明板と吾妻山への道標

 

Img_7685説明板

 

Img_7684この先に注意板がいくつも掲っている。これが無ければもっと気分よく歩けるのだが。

 

Img_7689夜泣き石(左)

 

Img_7688説明板

 

Img_7694開けた所に出る。

 

Img_7697見事な大木

一本の木ではないようだが。

 

Img_7703直進する道は続いているが、この先は通行止。右へ国道246号へ迂回する。

 

Img_7704標識

 

Img_7710新善波トンネルの手前で左に入り、善波トンネルへ。

 

Img_7712ラブホテル街を通って行く。 《地図

 

Img_7713善波トンネルが見えてきた。

ホテルの前に何やら立札が。

 

Img_7715だそうだ。

 

Img_7719トンネル内は冷やり、涼しい。

 

善波トンネルを抜け少し進み、右に折り返すように上って善波峠へ。

Img_7726善波峠 【ル-ト地図】の③

 

Img_7739破壊された石造物。6基あったという。

右端は享和2年(1802)の聖徳太子塔。左端は文化9年(1812)の馬頭観音、頭の欠けた2体は地蔵だろう。台座だけの物もある。痛ましい限りだ。

 

Img_7734御夜塔

これも破壊されている。

 

Img_7735説明板

 

Img_7741峠から一般道に出て急坂を下る。

 

Img_7745ぽっかり浮かぶ富士山

 

Img_7746お馬ちゃんも首を出して富士山を眺めているか。 (秦野国際乗馬クラブ) 

 

 この先で道を間違え、かなり南の方へ進んでしまい、県道の衛生センター交差点から北に進み落合交差点に出た。(【ル-ト地図】には正しい(と思われる)道筋を記載してある)

 

入船橋を渡って秦野宿へ入り、下宿・中宿・上宿へと進む。

Img_7752入船橋際に馬頭観音などが集められている。《地図

 

Img_7757下宿バス停そばの庚申塔道標(電柱右下)

 

Img_7758道標(嘉永4年(1851))

右側面に「左いせ原道」、左側面に「右大山道」か?

 

Img_7763馬車鉄道・軽便鉄道・湘南軌道説明板 《地図

 

Img_7764梶山商店

 

Img_7766ここも米店

 

本町四ツ角あたりが秦野宿の中心の十日市場だった。

Img_7775上宿観音堂 《地図

本尊の千手千眼観音は丑(うし)年に開帳される。毎月第1 の金·土曜日に「上宿観音市」が開らかれている。十日市場の名残りだろう。

 

Img_7772由来

 

この先で「乳牛通り」を横切る。乳牛(ちゅうし)は乳牛を飼っている所で、そして曽屋は(古代に作られていたチーズのような乳製品)を作るのある所などの説ある。

秦野橋(水無川)を渡り、小田急線の北側を西進する。

Img_7778道祖神・庚申塔道標(寛政4年(1792)) 《地図

 

Img_7779左側面に「加う山ミち」で、右側面には「ふし 四十八せ さい志やうし 道」と刻むそうだ。

富士山、四十八瀬川、「さい志やうし」は大雄山最乗寺

 

Img_7782矢倉沢往還碑(みどり幼稚園前)

 

Img_7786矢倉沢往還小田原道分岐(左折) 《地図

本道は直進。小田原道は南に堂坂を上り、峠の集落、富士見塚を通って神山で本道に合流する道で、四十八瀬川、川音川が増水して本道が通れなくなった時などに利用された。右折した稲荷神社前に「曲松の道標」が移設されている。

 

Img_7787曲松の道標(寛政8年(1796))

高さ183cmで秦野市内最大の道標。稲荷神社のイチョウは高さ25m、幹回り4m、樹齢400年余の古木。

 

Img_7789正面に「右ふじ山 さい志やうじ道 左十日市場 かなひかんをん道」・右側面に「右大山みち」・左側面に「左小田原いゝすみち」と刻む。「かなひかんをん」は金目観音のこと。

 

Img_7799二つ塚(右)

 

Img_7802堅牢大地神塔(中央・文化17(1814))

「左ふじ さい志やうじ ミち」・「右大山 十日市場 道」か?

 

Img_7800説明板

 

Img_7807沓掛不動、四十八瀬川の方へ下って行く。《地図

 

Img_7811未舗装の沓掛坂となってさらに下る。

 

Img_7815沓掛不動尊まで400mの標識

下調べでは四十八瀬川は渡れないようで、引き返すことを覚悟で行くが、けっこうな距離がある。また上り返すのは一苦労だ。

 

Img_7818小田急線にぶつかり少し下ると沓掛不動、茶屋跡。

 

Img_7820沓掛不動・茶屋跡 

旅人は茶屋で一休みし、新しい草鞋(沓)に履き替え、古い草鞋を木の枝に掛けて再び旅立ったのだろう。

 

Img_7821説明板

 

Img_7823沓掛不動(安永3年(1774))

台座は道標になっている。

 

Img_7822説明板

 

小田急線の踏切を渡り、四十八瀬川へ。

Img_7834仮橋から飛び石伝いに渡り、石積み土手沿いを右に進む。【ル-ト地図】の④

昔は大雨で増水した時は、堂坂から峠の集落を抜け、神山に出る小田原道(前述)が利用された。

 

Img_7836ちょっとした冒険気分だ。石段上は草に覆われ行き止まりのように見え、少し不安になる。まあ草の中を突進すれば何とかなるかも。

 

Img_7837振り返るとロマンスカーが気楽に通り過ぎて行く。だめならまた沓掛不動へ戻るしかない。

 

Img_7841石段上から左に折り返して道が続いていて、無事に国道246号に出られた。時間も距離も大幅に短縮でき、ちょっとスリルもあって大満足だ。

 

Img_7845上って来た所を振り返る。「矢倉沢往還道を甦らせる会」の標柱が立っている。《地図

 

Img_7847国道246号を進み、この先の蛇塚交差点を左折し、小田急線を渡って行く。

まだ三宅坂から71kmだ。

 

Img_7851採石工場などが並んでいてあまり気分のいい道ではない。

 

Img_7859神山滝(こうやまたき)道標

 

Img_7862風情ある旧家かと思いきや、ホテル神山滝だった。《地図

以前はここから神山滝へ行けたそうだ。

 

Img_7866東名高速(正面)をくぐって行く。

左は地蔵の祠

 

Img_7870小田原道合流地点 《地図

稲荷神社前の交差点で分かれた小田原道(左)に合流して直進し、十文字の渡し跡へと進む。

 

Img_7887旧家の黒板塀沿いに進む。

正面に矢倉岳が見えるのだが、今日は霞んでいる。

 

酒匂堰の先で川音川と酒匂川の合流点近くに出る。

Img_7894川音川(手前)・酒匂川・小田急線(正面) 《地図

十文字の渡しは、斜めに小田急線の上流の十文字橋を渡った大ケヤキあたりに渡っていた。(渡しの位置は幾度も変わったようだが)

 

十文字橋へ迂回する。まずは川音川を渡らねば。

Img_7896飛び石伝いの通称「ピョンピョン橋」で渡れそうだ。【ル-ト地図】の⑤

 

Img_7901一方通行でしか渡れないだろう。浅いが中央あたりの流れは早い。

 

土手から下りて北方向に進み、小田急線のガードをくぐる。

Img_7907道標(右) 《地図

ずんぐりむっくりした石に「左ふじみち 右???」で、ここを左折して行く。

 

Img_7913寒田神社

日本武尊、源頼朝が立ち寄り、宇宙飛行士のジョン・グレン氏は当社の祈祷神札を受け成功し、大願成就の参詣をしたそうだ。

 

Img_7914説明板

 

Img_7921十文字橋を渡る。

 

Img_7930大ケヤキ(2代目)

十文字の渡しはこのあたりに渡っていた。

 

Img_7927説明板

 

Img_7933_2蓑笠之助陣屋跡 

 

Img_7932説明板

 

Img_7935吉田神社

源頼朝が伊豆の三島から西相模へ移して祀った8社のうちの1社という。

 

Img_7937ここを左折(写真では直進)して行くのが旧道 《地図

バス停も「旧道 吉田神社入口」

 

Img_7939きれいな水路が流れる。

 

Img_7948石畳風な歩道

 

Img_7949「メエメエ子やぎ」か

向う側は小田急線

 

この先で突き当たって右折して行く。

Img_7955旧道っぽいくねった道

正面にうっすらは矢倉岳か? 矢倉沢往還はあの山の南側を通って足柄峠へと向うのだ。

 

Img_7964宮台地蔵尊

新しいガラス張りの祠で、何時でも拝めていいね。

 

大松寺の南側で左折し、橋場橋(洞川)を渡る。

Img_7971旧家

 

Img_7983福田寺沿いに進む。

左は湧き水の用水跡か?

 

Img_7977福田寺標柱の左に道標 《地図

「右 大山みち 左 ふじみち」か?

 

Img_7993竜福寺交差点 《地図

矢倉沢往還は直進、右折すると福寺、左折した竜福寺前バス停そばに、関本宿の「旅籠富士屋」の説明板が立つ。

 

Img_7995説明板

ここからは大雄山線で小田原駅に出た方が近いのだが、ここまで来られるとは思ってなく、本厚木駅近くのビジネスホテルを予約してあるので、箱根登山バスで新松田駅に出て、小田急線で本厚木駅に向かった。

2012年5月3日

北新井駅(JR信越本線)・・・(上信バイパス)・・・諏訪神社・・・石沢踏切(信越本線)・・・越後出雲神社・・・北陸新幹線(建設中)ガード・・・根切松跡(明治天皇石沢小休所跡)・・・瀬渡橋(矢代川)・・・茶屋町交差点・旧道・・・大和神社・今泉城跡・・・願清寺・・・弘法の清水・・・荒町交差点・県道579号・・・高田城下・伊勢町口番所跡・一里塚跡碑・題目塔(高田新田交差点)・・雁木通り・・南本町2丁目交差点・・青田橋(青田川)・・神明宮・・最賢寺・・正輪寺・・高橋飴屋・・時の鐘(瑞泉寺)・・・春日神社・・胎蔵院・・札の辻・・旧師団長官舎・・旭橋(青田川)・・小栗美作邸跡・・榊神社・・高田公園・・高田城跡・・大手橋跡・・市之橋(青田川)・・本町通り・・町会所跡(雁木通りプラザ)・・町家交流館高田小町・・今井染物店・・・加賀道・奥州道追分(本町7丁目交差点)・・宇賀魂神社・・・高田駅(信越本線)

 昨日と一昨日は北国街道松代道を歩いた。朝まで降り続いた雨も上がり、晴れてきて蒸し暑い。高田城下を散策して加賀道(北陸道)と奥州道(北国街道)の追分まで行き、今回の街道歩きの終点とした。

  【ル-ト地図】  

Img_7392昨日の雨で雪解けが進んだ山肌。

 

Img_7406越後出雲神社 【ル-ト地図】の16

江戸時代後期に出雲大社の分社として祀られ、大社参詣の案内をする御師の宿所もあったそうだ。

 

Img_7412根切松碑・明治天皇小休所跡(左)

街道に張り出していた樹齢500年の松の根は明治天皇巡幸前に切られた。天皇が通るくらいで切ることはなかろうに。碑を建てても松の霊魂は浮かばれまい。

 

Img_7415根切松碑

 

Img_7418瀬渡橋(せわたりばし)を渡る。《地図

 

Img_7416説明板

Img_7419矢代川(瀬渡橋から)

早い流れで、浅くもないようだ。徒歩渡りの時は難儀したことだろう。正面は工事中の北陸新幹線。

 

茶屋町交差点を右折する。

Img_7423大和神社 《地図

 

Img_7426今泉城跡の土塁跡

南朝方の村山義信隆義親子の居城跡という。土塁といってもわずかな高さしか残っていない。右端は相撲の土俵に被されたブルーシート。

 

Img_7424説明板

 

Img_7431弘法の清水跡(願清寺の先の左側)

 

Img_7432説明板

 

荒町交差点で右折し、県道を北行する。

Img_7434伊勢町口番所跡碑・一里塚跡碑・題目塔(高田新田交差点) 【ル-ト地図】の17

ここが高田城下への南の入口

 

Img_7435南東約30mの旧地から移設された題目塔など。

 

Img_7432説明板

 

Img_7441「雁木通り」が始まる。

雁木の総延長は16kmにも及び、日本一だそうだ。

 

Img_7452旧家

 

Img_7459屋根の雪下ろし用の梯子

今年は雪が多く大変な作業だったろう。

 

南本町2丁目交差点を左折し、青田橋(青田川)を渡って行く。

Img_7466高橋飴屋 《地図

寛永年間(1624~43)の創業という老舗。十返舎一九も訪れ、笹飴は『坊ちゃん』(夏目漱石)にも登場する。左に「十返舎一九ゆかりの地」碑。

 

Img_7468梁は高田城の廃材

2階を修理・改築する時に見つかったそうだ。美人の若女将が詳しく説明してくれた。

 

Img_7546『坊ちゃん』(夏目漱石)でおなじみ笹飴。

みやげに買って帰宅して食べて思い出した。ずっと以前に高田出身の職場の同僚から貰って食べたことがある。食べてびっくり、入歯の人は食べないように。

 

Img_7471時の鐘(瑞泉寺)

寛文9年(1669)に高田城主の松平光長の母、高田姫(勝姫)が造らさせたもので、呉服町の町年寄屋敷に設置された。昼夜12回の時を告げ、その音は遠く直江津まで響いたという。明治9年の大火以後、時報の役を終えて瑞泉寺の釣鐘になるまで「越後高田にすぎたるものは、大寺道心時の鐘」と唄われ町民に親しまれていた。♪『越後いたこ唄』♪ 
これを「・・・・犬、寺、道心、時の鐘」と書いたものが多いが「大寺」の間違いだ。

 

Img_7477札の辻 【ル-ト地図】の18

 

Img_7502案内図(南北が逆になっている)

上方の中央あたりの札の辻を右折して、旧師団長官舎から高田公園、高田城跡に向かう。

 

Img_7480旧師団長官舎 《地図

 

Img_7481説明板

 

Img_7486小栗美作住居跡 【ル-ト地図】の19

御家騒動の越後騒動で切腹した高田藩家老。藩主松平光長は家中取り締まり不行届きであるとして伊予松山藩の松平定直に預けられて高田藩は改易となり、美作派・反美作派とも八丈島などに遠島などの処分となった。

八丈島に流罪となった者たちのその後】(八丈島歴史民俗資料館の伊藤宏氏から送って頂いた「資料解説№13」より):「越後騒動で八丈島に流されたのは永見大蔵(家老で糸魚川城代・反美作派)とその家来の浜口源治郎、荻田主馬(藩主松平光長の異母弟・反美作派)と家来の中川源八郎、渡辺大隅守綱貞(関与した大目付)と家来高松武兵衛、小栗甚之丞と倅兵右衛門の8人で、1681年(延宝9)6月のことです。
 氷見大蔵は中之郷村預かりとなり、在島21年1701年(元禄14)の大飢饉の時に千両箱を枕に餓死したと伝えられています。遺品の護持仏は空襲で焼失しましたが、「火を取る玉・水を取る玉」が長楽寺に伝えられています。(町教委が管理) 長い間不明とされていた墓は子孫の努力で2004年(平成16)末、中之郷粥倉墓地で発見されました。
 荻田主馬も同じ飢饉の犠牲者となりました。粥倉にあった墓は60余年後の明和年間には不明になっていましたが、流人の青山喜平治が24年を費やして探し出し、隣接地を買い求めそこに流人の霊を供養したことが伝わっています。(八丈島流人銘々伝)
 江戸町奉行渡辺大隅守綱貞(3千石)は1682年(天和2)2月病死と記録されています。
 三根村預りとなった小栗父子は父甚之丞が1693年(元禄6)5月に病死、倅兵右衛門は1710年(宝永7)赦免となりました」

 

Img_7500高田公園から

 

Img_7508高田城三重櫓 《地図

高田城は天守閣・石垣のない平城で、三重櫓は天守閣の代わりだった。

 

Img_7512極楽橋(復元)

二の丸から本丸に通じる木橋。

 

Img_7518町会所跡(雁木通りプラザ) 《地図

町年寄が集まり町政を決めた集会所跡。

 

Img_7523高田小町(町家交流館) 《地図

 

Img_7524今井染物店 《地図

江戸後期に建てられた商家。古い形式の雁木の上に部屋がある「造り込み式雁木」が残る。

 

Img_7526雁木の下

 

Img_7529右が「造り込み式雁木」で、左が庇だけを前に出す「落とし式雁木」

 

Img_7531追分 【ル-ト地図】の20

加賀道(北陸道)は左に、奥州道(北国街道)は右へ。

 

Img_7537追分道標(現在は少し北の宇賀魂神社に移設してある)

「右おゝ志う道 左かゝ道」

 

Img_7538説明板

 

Img_7544_2高田駅

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