2013年10月

2013年10月22日

奥内駅(JR津軽線)・・・国道280号・・・天満宮標柱・・・内真部橋(内真部川)・・・大山祇神社標柱・・・稲荷神社標柱・・(左堰駅)・・・左堰橋(左堰川)・・・六枚橋(六枚橋川)・・昇龍の松・赤平家・・・熊野宮神社標柱・・・(後潟駅)・・・馬頭観音神社・・・後潟神社・・・稲荷神社・・・四戸橋(四戸橋川)・・(蓬田村)・・・地蔵堂・・・傘松観世音・・・中沢小学校記念館・・・長科橋(長科川)・・・(蓬田駅)・・・正法院・・・阿弥陀橋(阿弥陀川)・・稲荷神社・・・八幡宮標柱・・・蓬田橋(蓬田川)・・・蓬田漁港・・・(郷沢駅)・・・浜田橋(郷沢川)・・・玉松園入口標識・・津軽線線路・・玉松台・・・国道280号・・・玉松橋(板木沢川)・・・(瀬辺地駅)・・・天満宮・・・地蔵祠・・・広瀬橋(広瀬川)・・・田中邸跡?・・・(外ヶ浜町)・・・津軽藩蔵屋敷跡(青森法務局蟹田出張所跡)・・・八幡宮・・・蟹田駅(JR津軽線)

  【ル-ト地図

 陸奥湾沿いを北上し、青森市から蓬田村、外ヶ浜町の蟹田へと進んだ。
 この先、奥州街道歩きの終点する三厩から竜飛崎まではたいした距離ではないが、太宰治が小説『津軽』で「津軽の旅行は、五、六月に限る」と言っているように、来年の5、6月の楽しみとしよう。

 奥州街道蟹田駅→平舘)』へ続く。 

Img_7218旧家

左堰橋を渡った右手。

Img_7220旧家

Img_7225六枚橋から六枚橋川上流方向

Img_7230昇龍の松・赤平家 【ル-ト地図】の249

盆栽の化け物か。赤平家は松前藩主の参勤交代の際の宿泊所だった。

Img_7226説明板

Img_7233尻八城址標識

安東氏が築いたという本州最北端にある本格的な山城。

Img_7239馬頭観音神社 【ル-ト地図】の250

・鳥居・観音堂、まさに神仏混交(習合)だ。

Img_7243国道に戻らず、馬頭観音神社前の道を行く。

Img_7247後潟神社 《地図

旧郷社、祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。

Img_7258四戸橋(四戸橋川)河口 《地図

「しのへ」ではなく「しと」、風が強く白波が立っている。

橋を渡って青森市から蓬田村に入る。

Img_7266地蔵堂

地蔵(天保12年(1841))は天明飢饉の犠牲者供養のため建立されたと伝える。

Img_7267地蔵堂の脇

百万遍供養塔(左)・右の猫が浮彫されているのは、猫の墓か動物の供養塔か?

Img_7269傘松観世音 

鳥居の左側の傘を拡げたような老松が傘松のようだ。本尊は聖観音で嘉永2年(1849)、中沢村有志が発起人となり、無病息災、部落民安泰を祈願し建立、安置したもので、変事に際には黒色に変じ、ついには漆黒となり露をもらすという。
ここも馬頭観音神社と同じで、観音堂と鳥居だ。

Img_7276中沢小学校記念館(蓬田保育園の庭)

校舎にしては小さいが。

Img_7289正法院山門(仁王門)

松前藩主の参勤交代の休憩所だった。

Img_7299稲荷神社

旧村社

Img_7301阿弥陀橋(阿弥陀川) 《地図

金光上人が阿弥陀如来像(県重宝・弘前市の西光寺に安置)を掘り上げたことに由来する。

Img_7312蓬田漁港

天明8年(1788)、この地を通り北海道へ渡った菅江真澄は、「さらに行くと郷沢(蓬田村)という村のあとがある。卯辰の飢饉(天明飢饉)に、漁をしても魚さえなく、犬を料理したり馬を殺して食ったころ、住む人も死にたえ、家々も焼けてしまったのだという。瀬辺地をへて広瀬(蓬田村)というところの細い流れにのぞんで「ひろせ川袖つくはかりあさきをやこころふかめてわかおもへらん」(万葉集巻七、読人知らず)と、大和とおなじ地名があるので、ここで口ずさんでみて、蟹田の宿駅を越えると川があった。綱舟をたぐってわたしている」と記す。『外ヶ浜づたい』より

 

Img_7348玉松園入口標識

Img_7326津軽線で行止りだが。

フェンスの脇から線路を渡る。

Img_7342玉松台 【ル-ト地図】の252

江戸時代、青森港や油川港へ向かう舟は、ここの松を見て何時頃湊へ着けるかを目算し、地元の船は灯台代わりの目印にしたと伝える。

Img_7327説明板

Img_7335玉松

枝が円を描いていて「玉」だそうだ。

Img_7328民話

あっさりとあきらめてしまうとは人のいい庄屋だ。

Img_7339玉松台から玉松海水浴場 《地図

たままつ海の情報館」もある。

Img_7353龍飛まで47km

終点が近づいてきてなんとなく寂しい感じだ。今回行かないが。

Img_7369天満宮参道(振り返って海方向を見ている)

旧道は天満宮の丘よりの斜面を通っていたようだ。

Img_7364天満宮

標高25m

Img_7375地蔵

回りには百万遍供養塔

Img_7381広瀬川河口

かもめが群れて、頭上を舞う。

Img_7391気温14℃

海からの風で体感温度は低く感じる。上着を着ないと寒い。

Img_7402田中吉兵衛邸跡?

無住のようだ。明治から大正にかけての海運業で財をなしたそうだ。

Img_7394土蔵は開けっ放し、空っぽ。

Img_7397庭園?

Img_7407海と津軽線の線路に挟まれて進む。

このあたりは潮が引くと海岸を歩き、海が荒れると山側を歩いたそうだ。

Img_7418津軽海峡線の特急だ。

後で蟹田駅から青森まで乗るつもりだ。

Img_7421外ヶ浜町に入った。《地図

2005年3月に蟹田町・平舘村・三厩村が新設合併して誕生した町。

Img_7428蟹田の町並みに入る。

Img_7430津軽藩蔵屋敷跡(左・青森法務局蟹田出張所跡) 

Img_7435八幡宮(村社) 【ル-ト地図】の254

Img_7436左折して蟹田駅へ

この先、街道は海岸沿いを行くが、津軽線は北西に離れて行く。今回の奥州街道歩きはここまでとし、この先、三厩から龍飛崎までは、来年の5月の楽しみとしよう。

Img_7437蟹田駅 【ル-ト地図】の255

2013年10月21日

野内駅(青い森鉄道)・・・県道259号・・・野内橋(野内川)・・・原別橋(原別川)・・・海昌寺・・・造道交差点・沢田橋(赤川)・旧道・奥州街道標柱・・・猿田彦神社・・・合浦公園・三誉の松・・・茶屋町・・・旭橋(堤川)・・・塩町・・・湊奉行所跡(聖徳公園)・・・棟方志功出生の地・枡形跡・・奥州街道終点の碑・青森市道路元標・善知鳥神社・・・青い森公園・・・御仮屋跡碑(青森県庁)・・・青森湾・八甲田丸・・青森駅・・あすなろ橋(跨線橋)・・・県道280号・・・森林博物館・・沖館橋(沖館川)・・・新井田橋(新城川)・・・明誓寺・・・油川神明宮・・・浄満寺・千人塚・・・大浜橋(天田内川)・・・西田酒造店・羽州街道・松前街道合流地碑・・油川湊番所跡あたり・・・油川橋(油川)・・・油川温泉・・・(油川駅)・・・粟島神社・・・浜田橋(浜田川)・・・八幡宮参道・・・羽黒神社標柱・・・瀬戸子川・・・八幡宮標柱・・・(津軽宮田駅)・・・清岸寺・・・奥内橋(奥内川)・・・三社宮標柱・・・貝倉神社・・・奥内駅(JR津軽線)

  【ル-ト地図】  

Img_7058赤川河口(沢田橋から) 《地図

正面は青森湾

橋を渡って右に旧道入る。

Img_7059電柱前に奥州街道の標柱

Img_7064猿田彦神社

自然石の猿田彦塔(文化5年(1808))が祠内に祀られている。

Img_7072合浦 (がっぽ)公園中を通る。 【ル-ト地図】の241

Img_7077説明板

Img_7075三誉の松

Img_7074説明板

Img_7079茶屋町の家並み

「茶屋」が並んでいたというの面影はない。

Img_7082旭橋から堤川河口方向 《地図

寛文11年(1671)に木橋が架けられる前は舟渡しだった。旭橋の東南詰めに「茶屋町延命地蔵尊」があるようだが見逃した。

Img_7083塩町を進む。 《地図》 

Img_7086説明板

Img_7089湊番所跡あたり(聖徳公園) 《地図

明治天皇の記念碑ばかりで、湊番所の説明板などはない。

Img_7093_2高札場跡 《地図

ここは枡形跡で左側が棟方志功出生の地。

Img_7098奥州街道終点の碑・青森市道路元標(善知鳥神社前) 【ル-ト地図】の242

ここを終点とし、この先は松前街道・外ヶ浜道とするが諸説あり。

Img_7095説明板

Img_7099善知鳥(うとう)神社

善知鳥安方(一説に将門の家臣)の創建と伝える。
安方は『善知鳥安方忠義伝』 にも登場する。『将門マップ

Img_7100由緒

Img_7106菅江真澄句碑・謡曲善知鳥の旧蹟碑

Img_7102説明板(句碑)

Img_7105説明板(謡曲)

Img_7110青い森公園

向う側の県庁が御仮屋跡

Img_7112御仮屋跡碑 【ル-ト地図】の243

この碑を見つけるのに苦労した。ここから20mも離れていない東門の守衛も知らないとは情けないね。

Img_7113説明板

Img_7115米穀商店

Img_7440八甲田丸  《地図

船首側には、♪「津軽海峡冬景色」♪の碑がある。近づいたら歌いだした。観光客の多い日などは一日中歌いっぱなしだろう。奥州街道歩きの終点とする竜飛崎にもあるようだ。拙者の美声はそこで聞かせるとしよう。

青森駅にぶつかり街道は途切れる。南側のあすなろ橋で線路を越える。

Img_7123あすなろ橋 《地図

Img_7125街道復活地点 《地図

この先で国道280号に合流し、陸奥湾沿いを北上する。

Img_7127森林博物館  《地図

Img_7131沖館橋(沖館川)から青森湾方向 【ル-ト地図】の244

右は森林博物館

油川の入口に代官所があったそうだが何の標示もなかった。

Img_7146浄満寺 【ル-ト地図】の245

円空作の木彫釈迦牟尼如来坐像を安置。

Img_7151天明飢饉供養塔・千人塚

浄満寺境内に天明飢饉の犠牲者800人を埋葬した千人塚が作られた。
右の五輪塔は油川城の奥瀬氏の墓と伝える。

Img_7150由来

Img_7148森山弥七郎供養碑(浄満寺境内)

青森開港の功労者。

Img_7147説明板

Img_7164西田酒造店 《地図

「田酒」・「喜久泉」の醸造元

Img_7166こみせ

商店が軒先を出し合い、雨・風・雪を避けて通れるようにしたアーケード。

Img_7168羽州街道・松前街道合流地碑 【ル-ト地図】の246

ここを奥州街道の終点・松前街道の起点としている。
油川は交通の要衝地、外ヶ浜第一の湊として栄えたが、青森港開港後はその地位が下がった。油川商人の才覚と努力で商人町として生き残って繁栄したが、度重なる火災と明治3年に油川を経由しない弘前~青森間の新道が開通し打撃を受け衰退して行った。

Img_7167説明板

この先で右に入った浜沿いが湊番所跡だが、説明板などはない。

Img_7176粟島神社

社殿の後ろは青森湾。

Img_7181飛鳥地区を行く。

ここ津軽にも飛鳥(あすか)があった。西方に飛鳥山(104m)もある。

Img_7182羽黒神社標柱

津軽線の向うに鳥居が見える。

Img_7185瀬戸子川 《地図

Img_7189津軽宮田駅を過ぎる。

Img_7192清岸寺 【ル-ト地図】の247

木彫阿弥陀如来坐像(青森市指定文化財)
本堂前の庭の石灯籠2基は上野の寛永寺から下付されたそうだ。

Img_7191説明板

Img_7198貝倉神社

普通の民家風の建物だ。西方約4kmの奥内川中流域の山中にあるという貝倉神社の末社だろうか。

Img_7202奥内駅(JR津軽線)

無人駅

2013年10月20日

清水川駅(青い森鉄道)・・・国道4号・・・旧道・・・清水川漁港・・・清水川八幡宮・・・国道4号・・・清水川大橋(清水川)・・・平内パーキング・奥州街道標柱・案内板・・・堀替川・・・(青い森鉄道)・・県道9号・・・神明宮・・・庚申塔・・・小湊橋(小湊川)・・・浄専寺・・御家中の松・・高橋竹山碑・平内代官所跡・歴史民俗資料館・・・竹内家跡(明治天皇行在所跡)・平内町役場・・かどや久末商店・・・(国道4号)・・・天明飢饉供養塔・・・奥州街道標柱・・・人形坂・・・藤沢交差点・国道4号・・・(西平内駅)・・・(青い森鉄道)・・・旧国道4号・・・ほたて広場・土屋番所跡・・・懸坂跡・(青森市)・・・八大龍神宮・・・奥州街道標柱・案内板・・・浅虫温泉・・足湯公園・・椿館・・夢宅寺・・柳の湯(本陣跡)・・浅虫川・高札場跡・・・国道4号・・・うとう坂跡・・・善知鳥崎・(善知鳥トンネル)・古戦場標柱・明治天皇御休所跡碑・うとうまいの梯跡・・・久栗坂交差点・・稲荷神社・とうまい坂・・県道259号・・・根井橋(根井川)・・久栗坂漁港・・・観音寺・錦木之塚・・不動尊・・県道259号・・久栗坂・・川上神社・・・(青い森鉄道)・・・貴船川・・・(青い森鉄道)・・・野内番所跡・・当古寺・・松並木跡・・野内駅(青い森鉄道)

  【ル-ト地図

  途中から雨となったが予定通り青森市に入り、野内駅まで進んだ。  

Img_6853清水川八幡宮 《地図

かわいい狛が出迎えてくれた。陸奥では馬を大切にしているのが分かる。

Img_6855由緒

Img_6859清水川大橋から清水川 【ル-ト地図】の228

Img_6861現在気温15℃

上着を着て歩いているとちょっと暑いくらいだ。

Img_6865平内パーキング

ミニ松並木と街道碑

Img_6864説明板

狩場沢と土屋の間の旅籠は、小湊に1軒あるだけだったようだ。

堀替川を渡り、浜子地区を過ぎ、青い森鉄道を越えた先で国道4号から離れ右へ入り、県道9号を沼館、小湊へと進む。

Img_6877大島椿山・白鳥渡来地標識

この先で右折して県道9号を北上すれば、小湊の白鳥渡来地で、夏泊半島の先端には椿自生北限地帯も椿山がある。白鳥は10月上旬頃から渡来するとは知らなかった。ここから近いのに惜しいことをした。
街道は直進する。

Img_6881神明宮

七戸隼人が慶長年間(1596~1614)に浜子村に創建し、寛永8年(1631)に藩命で当地に移転したという。

Img_6882庚申塔

ちゃんと鳥居がついている。

Img_6886小湊の町並み 《地図

いずこも同じ秋の夕暮、シャッター通り商店街か。日曜日のせいもあるかも。突き当りを右折する。

Img_6888御家中の通り

このあたりは蝦夷のチャシ(砦・館)があったといわれている所で、藩政時代の明暦2年(1656)以降は津軽家黒石藩領で平内代官所が置かれ、その周辺に武家屋敷を配したことで御家中と呼ばれる小城下町を形成していた。左は浄尊寺。

Img_6904御家中の松

推定樹齢300年のクロマツ

Img_6893説明碑

Img_6895高橋竹山

津軽三味線の名人は、ここ平内町の生まれ。

Img_6902平内代官所跡 【ル-ト地図】の230

右は歴史民俗資料館で「初代高橋竹山資料展示室」を兼ねている。

Img_6897説明板

Img_6906豪商竹内与右衛門家跡(平内町役場) 《地図

明治天皇行在所(後ろに碑)にもなった。

Img_6908かどや久末商店(役場の斜め向かい)

寛政10年(1798)正月にこの地に滞在していた菅江真澄の『津軽のつと』に出てくる、小湊の酒屋の「久末」だそうだ。

国道4号を横切り、その先で右折して行く。

Img_6912天明飢饉供養塔 【ル-ト地図】の232

Img_6911説明板

東福寺は町役場の西側にある。「昔の奥州街道」とある。

Img_6915旧道はやっぱりいいね。

Img_6920奥州街道標柱(正面)

平内町が去年の10月に設置したもの。標柱に沿って西へ進む。

Img_6922まだ刈入れ前のようだが。

Img_6923人形坂 《地図

人形送り行事の人形を捨てた所という。上って下って藤沢の人形坂地区を抜ける。

藤沢交差点で国道4号に出る。《地図

Img_6931ここを左へ入るのが旧道かも?

西平内駅の手前。

西平内駅を過ぎ、青い森鉄道を越え、県道9号との分岐の先で左側の旧国道を進む。

Img_6937旧国道を行く。 《地図》(道の標示はない)

右上を国道4号が通っている。

Img_6941車もほとんど通らない静かな道を下る。《地図

雨が降り出してきた。

Img_6946土屋番所跡 【ル-ト地図】の233

津軽家黒石藩の弘前藩領との境の番所。
今は「ほたて広場」で、ここで雨宿りで一休み。

Img_6948説明板

Img_6951ほたて供養塔・ほたて観音

Img_6950由来

Img_6949鍵懸坂(跡) 《地図

天明8年(1788)7月6日に菅江真澄がこの坂を越えた時にはたいそう険しい道で、大木に木のっていた。これは、恋する人を思いながら、縁結びの神に祈り、になった切り枝を投げ、それがうまく木にれば思いが叶うというもので、陸奥には所々にある習俗だと記す。『外ヶ浜づたい』から
今は切り通されて傾斜はほとんどなくなってしまった。

Img_6953ほたて大橋・鴎島

黒石領(平内町)から弘前領(青森市)に入る。

Img_6957奥州街道標柱・向う側に案内板

浅虫温泉へと入って行く。平成16年9月に道の駅「ゆーさ浅虫」の展望浴場で温泉を楽しんだことがある。むろんその時には、東京から歩いて再来するとは夢にも思わなかったが。

Img_6958街道図

とふ(う)まい坂の途中に一里塚があったようだ。

Img_6966足湯公園

飲泉場と温泉玉子が作れる「温泉たまご場」もあるようだ。

Img_6971椿館

棟方志功の常宿

Img_6969夢宅寺 《地図

菅江真澄が訪れた頃は夢宅庵だった。津軽三十三観音の第23番

Img_6974周辺案内図

Img_6973石木別荘(跡)?

Img_6976柳の湯

津軽家弘前藩本陣跡

Img_6977浅虫川を渡った左側が高札場跡。

Img_6980国道4号に出る。

街道は、①陸奥湾沿いに進み、「うとうまいの梯」を通る。②山越えの「うとう坂」を上り、「とうまい坂」を下る。2つの道筋があったが、山越えのルートは山崩れのため全部は通じていないようだ。

Img_6982うとう坂跡か?

善知鳥神社の「うとう考」の『烹雑の記』(滝沢馬琴)に記すように、海辺の出崎の坂。 『うとう坂表

Img_6985山崩れの跡?

この下を街道が通っていたのだろう。

海沿いを善知鳥崎へと進む。

Img_6987古戦場跡・善知鳥トンネル・うとうまいの梯(かけはし)跡 【ル-ト地図】の236

トンネル手前で右へ小道(うとうまいの梯跡)に入る。
『外ヶ浜づたい』(菅江真澄)には、「道は山路があってそこを馬がかよい、浜辺の道は人が磯をつたって歩いている。うとうまいの梯を渡った。岸から高い岩の上に、六尺ほどの板を渡してあり、いかにも危なそうである。」で、越後の「親不知・子不知」とともに二大険路だったという。

Img_6988古戦場碑

源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の残党、大河兼任等が鎌倉軍に対して最期の防戦をした地と伝える。

この先、海岸沿いの小道を進むと、左に明治天皇御休所跡碑がある。その先は背丈ほどもある雨に濡れた雑草にふさがれて進みづらいが、戻ってトンネルを抜けるのも癪だし強行突破した。おかげで全身濡れねずみとなった。海が荒れている時は今でも通れないだろう。

Img_6996うとうまいの梯跡あたり

振り返って見ている。

Img_6994_2説明板①(うとうまいの梯・大河兼任の乱)

Img_6993

Img_6998とうまい坂の坂下

うとう坂を越えた山越えの道は、ここへ通じていた。

Img_6999稲荷神社

右へ上るのが「とうまい坂」。

Img_7004自然歩道案内図

浅虫の八幡宮からの道筋だ。街道は「うとう坂」を上り、「卍高野山」の左側を通って、自然歩道の道筋に合流していたのだろう。

Img_7005とうまい坂(坂上方向) 

草深く雨で靴の中はすぐにびしょ濡れだ。途中で引き返す。

Img_7006久栗坂漁港

久栗坂交差点から県道259号に入り、久栗坂の集落から右に入って観音寺に寄る。

Img_7019錦木之塚(観音寺境内) 《地図

①善知鳥中納言安方(青森の善知鳥神社を創建したと伝える)の妻の錦木が夫のあとを慕ってここまで来て病歿し、村人が憐れんで埋葬した墓。
②旅の途中で行き倒れになった娘の墓、供養塔。とも伝わるそうだが、①は時代が古過ぎやしないか?
また、菅江真澄は「けふのせば布」で、「錦木塚」の伝説・風習を記しているが、①・②とも全く異なる内容で、この塚とは無縁か?

Img_7020久栗坂を上る。《地図

右が川上神社で急な石段を上る。

Img_7022川上神社

慶長元年(1596)、当村開発の折、田地から発見された観世音像を祀る観音堂(先ほどの観音寺か?)を建立。明治初年の神仏分離の際、高龗神(たかおかみのかみ)を勧請し、川上神社と改称したそうだ。社殿の右隣に山頂薬師堂がある。

Img_7030久栗坂トンネル(青い森鉄道)を越え、浦島地区から野内地区へ下って行く。

貴船川を渡り、青い森鉄道をくぐる。

Img_7034野内番所跡(左)【ル-ト地図】の239

津軽三関の一つ。左の松あたりに黒石藩、向かい側に弘前藩の番所があった。
ひと月の通行者が100人程度というから、番人も暇をもて余していただろう。

Img_7035説明板

Img_7039当古寺鐘楼門 《地図

本尊の木彫阿弥陀如来像は県の重宝。津軽八十八カ所の第24番。

Img_7042松並木の名残りと、枡形跡の緩やかな曲がり。

Img_7046野内駅(青い森鉄道)

旧野内駅は1.6km手前にあった。2011年3月に青森駅寄りのここに移転した。駅舎は新しいが無人駅。

2013年10月19日

野辺地駅(青い森鉄道)・・・与田川橋・・・国道279号・・鳴沢橋(野辺地川)・・・西光寺・・海中寺・・・愛宕公園・愛宕神社・・・旧野村家住宅(明治天皇行在所跡)・・・神明宮・・・野辺地代官所跡(野辺地城跡)・・・国道279号・・・県道243号・・・野辺地八幡宮・・・八幡町踏切(JR大湊線)・・・遠見番所跡・常夜燈公園・浜町の常夜燈・野辺地湾・・・県道243号・・・野辺地橋(野辺地川)・・・野辺地戦争戦死者墓所・・・馬門番所跡・・・馬門交差点・国道4号・・・東京から699.9km地点・藩境塚・二本又川・(平内町)・・津軽藩関所跡碑・・・奥州街道標柱・旧道・・狩場沢番所跡あたり・・・熊野宮・・・地蔵祠・・・国道4号・・・狩場沢漁港・・・旧道・・・国道4号・・・(狩場沢駅)・・・堀差橋(堀差川)・・・旧道・・・清水川漁港(口広地区)・・・口広交差点・国道4号・・・清水川駅(青い森鉄道)

  【ル-ト地図

 野辺地から馬門→浅虫→青森へと進み、青森湾沿いを北上し、津軽半島外ヶ浜の蟹田まで4日間で歩く。
 所々で地元の年配者から難解な方言(特に津軽弁)で話しかけられ、外国人と話すような身振り手振りで応対する、とまどいの道中でもあった。

  *奥州街道十和田市街→野辺地宿』からの続きです。  

Img_6700愛宕公園の石段 《地図

本町通りに敷かれていた北前船によって運ばれた香川県小豆島の土庄町の産出の花崗岩(御影石)。

Img_6695説明板①

Img_6696

小豆島の土庄町にある大坂城残石記念公園と、愛宕公園は友好公園。

Img_6706旧野村家住宅(明治天皇行在所跡) 《地図

Img_6705説明板

Img_6709本町通り 《地図

ここに御影石(花崗岩)が敷かれていた。この先の交差点が高札場跡のようだ。

Img_6712神明宮

野辺地町の「七五三」の子どもは何人だろうか?

Img_6711縁起

Img_6713野辺地代官所跡 【ル-ト地図】の222

図書館・歴史民俗資料館一帯で、かつての野辺地城跡でもある。
明治維新の野辺地戦争の際には、弘前・黒石藩の津軽軍はこのあたりまで進攻して来た。

Img_6730野辺地八幡宮 《地図

慶長年間(1596~1614)の創建と伝える野辺地の総鎮守。本殿は正徳4年(1714)の再建で、現在は拝殿を兼ねた覆屋の中に保存されている。『野辺地町の文化財
常夜灯(嘉永5年(1852))は地元の廻船問屋の寄進。この手前にある石鳥居の石は北前船で瀬戸内方面から運ばれた。

Img_6728金刀比羅宮本殿(八幡宮境内)

文政5年(1822)に廻船問屋仙台屋彦兵衛らによって勧進寄進された。一間社流造で屋根は柿覆(こけらぶき)の建築型厨子で、上り龍・下り龍などの彫刻が施されている。江戸時代に湊町として栄えた野辺地の航海安全の守り神。

JR大湊線の八幡町踏切を渡って、野辺地湾沿いの遠見番所跡・常夜燈公園へ寄る。

Img_6733正面に浜町の常夜燈が見える。 《地図

Img_6736遠見番所跡(南部藩) 【ル-ト地図】の223

Img_6745浜町の常夜燈

盛岡藩の日本海航路への窓口として賑わった野辺地湊へ、夜間入港する船への目印として、旧暦3月10日から10月10日までの間、毎晩火が灯された。

Img_6746説明板

Img_6752野辺地湾

空の青、海の青、白い船。遠くに霞んで下北半島。

Img_6751説明板

材木運搬の航路。

Img_6741説明板

銅の道でもあった。

Img_6763野辺地戦争戦死者墓所 【ル-ト地図】の224

盛岡藩・八戸藩は新政府に降伏しているのに、新政府軍の証(あかし)を立てるため、余計な戦いを仕掛けてあえなく討ち死した弘前・黒石藩の津軽軍の27名の墓所か。『野辺地町の文化財

Img_6764説明板

Img_6769事代主之神塔・延寿明神塔(右の木の下)

Img_6776馬門(まかど)番所跡(南部藩) 

人々や物資の出入りを監視するために南部藩が設置した。建物は柵で囲われ、番人が警護していた。
幕末の馬門村は戸数約30の宿駅で、粟や稗などの農業と帆立貝中心の漁業が主だった。

Img_6805馬門番所(藩境塚の所に復元されたもの)

左の高札には、武具類や鉄製品、南部の特産品などの領外への持ち出し禁止が書かれている。(宝暦6年(1756))

Img_6781馬門交差点で国道4号に合流する。

Img_6783東京から699.9km地点

ここから右に海岸へ下りると藩境塚がある。

Img_6786藩境塚 【ル-ト地図】の225

手前の2つが南部側、二本又川を挟んだ向う側の2つが津軽側ですぐ右側は野辺地湾。街道は塚の間を通っていた。
『街道をゆく』で司馬遼太郎がここを訪れた頃(1971年11月)は、南部側の塚は立派で、津軽側の塚はぞんざいな作りだったという。今はどちらもきれいに手入れ、整備されている。

街道をゆく 三巻』の「野辺地湾」の一文。:「津軽家に領土を横領されたという歴史をもつ南部藩の場合、その境界を木柱や石柱というような簡便なもので済ませるというにはあまりにも思いが深刻だったにちがいない。古墳でも築くように土を盛りあげ、その上に松杉まで植えたればこそこのように除去されずに遺ったのであろう。津軽藩の場合、-またまた南部衆めが例によって執念ぶかく妙なものをこしらえおった。というわけで、対抗上やむをえず対になる二つを築いたに相違ない。うんざりしているような感じが、津軽側の塚作りのぞんざいさにもあらわれているような気がした。」

Img_6793説明板

Img_6797二本又川

右が南部領

野辺地町から平内町に入る。今はどちらも青森県。

Img_6809津軽藩関所跡碑

国道沿いの右側だが、「青森県歴史の道調査報告書」はこの位置ではないとする。

Img_6811狩場沢番所跡(津軽藩関所跡) 《地図

正面に奥州街道の標柱が立つ。
「青森県歴史の道調査報告書」によれば、左に上った最初の民家あたりのようだ。そこが津軽藩関所跡ということだろう。

狩場沢村は幕末の戸数約20で、馬門村と似たような状況だったようだ。

Img_6820熊野宮

左の金勢大明神の祠に木造の男根が立つ。

Img_6814白畑・堤ケ沢の集落を抜け、ここを右折して国道へ戻った。

右に地蔵の祠がある。

Img_6823狩場沢漁港

Img_6825左に旧道に入るがすぐに国道に合流して狩場沢駅を過ぎる。

Img_6827国道4号を行く。

歩道がなく、時折大型ダンプが轟音をあげ連なって通り過ぎる。あとに爆風を残して。

Img_6830堀差橋から堀差川

この先で右に旧道に入る。

Img_6839清水川漁港(口広地区) 《地図

ここで散歩中?のおじいさんから声をかけられた。方言で聞き取りにくく、身振り手振りを交えての会話となった。

Img_6843この先で国道に出る。

Img_6850清水川駅(青い森鉄道)【ル-ト地図】の227

2013年10月3日

永山駅(京王相模原線)・・・永山橋(乞田川)・・永山橋交差点(鎌倉街道・県道18号)・・ころげっと坂・・・旧鎌倉街道・・古市場跡・・多摩市役所・・沓切坂・・庚申塔・・県道18号・・・霞ノ関南木戸柵跡・熊野神社・・・馬頭観音・・・関戸古戦場跡・地蔵堂・・・大栗橋(大栗川)・・・関戸橋(多摩川・関戸の渡し跡)・(府中市)・・・中河原駅(京王線)・・・中河原駅北交差点・・法音寺・・・分梅橋(新田川)・分倍河原古戦場碑(新田川分梅公園)・・(中央道)・・・光明橋跡・・光明院坂・光明院・・・高倉塚古墳・・・神社前踏切(JR南武線)・・・八雲神社・元応の板碑・・・浅間神社・庚申塔・・・(旧甲州街道)・・・(甲州街道)・・・東芝府中工場迂回・・・県道20号・・・白明坂(鎌倉街道裏街道)・・県道20号・・・武蔵台緑地・・黒鐘公園・武蔵国分尼寺跡・・・鎌倉街道切通し・・尼寺北方の塚・・(伝)祥応寺跡・・・泉町陸橋(JR武蔵野線)・・・東山道武蔵路跡・・・西国分寺駅(JR武蔵野線)

 鎌倉街道上の道⑤)』に続く。

  【ル-ト地図】  

Img_5922ころげっと坂を上って旧鎌倉街道へ  《地図

関戸の関所で捕らえれれた罪人を坂下の処刑場まで連れて行く時、この坂まで来るとなかなか進まず、ころがすように引いて行ったことからこのような名がついたという。

 

Img_5924左に旧鎌倉街道の旧道に入る。

 

Img_5926古市場標柱(多摩市役所前)

 

Img_5928説明文

 

Img_5931沓切(くつきり)坂を下る。 《地図

関戸の戦に勝って鎌倉を目指す新田義貞軍がこの坂を通りかかった時、あまりの急坂で馬の沓が切れてしまった。 ②正平7年(1352)、新田義興が鎌倉から足利尊氏を追い、夜半にこの坂付近にさしかかった所で、音消しの馬の沓を取り、裸馬を飛ばしたとの伝承による。

 

坂の途中の左上に庚申塔(正徳2年(1712))がある。

Img_5934旧鎌倉街道に合流

 

Img_5943霞ノ関南木戸柵跡・熊野神社 《地図

柵が復元されている。北木戸柵は観音寺の所にあった。

 

Img_5941説明板

 

Img_5942想定図

 

Img_5950観音寺(せきど観音) 《地図

 

Img_5952関戸古戦場跡・地蔵堂 

元弘3年(1333)、新田義貞軍は鎌倉に向かう途中、分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、5月16日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、6日後に鎌倉を征圧した。

 

Img_5956地蔵堂の左前に「関戸古戦場跡」の標柱

 

Img_5962関戸橋から多摩川(上流方向)

昭和12年までは関戸の渡しがあった。

 

多摩市から府中市に入る。

Img_5965中河原駅北交差点で右に旧道に入る。 《地図

 

Img_5967旧家

 

Img_5972分倍河原古戦場碑(新田川分梅公園) 

 

Img_5973説明板

 

Img_5982光明院坂を上る。 《地図

光明院・高倉塚古墳・八雲神社・元応の板碑・浅間神社・庚申塔は、『府中市の坂-1』に記載。

 

Img_6002旧甲州街道を横切る。 【ル-ト地図】の11

 

Img_6011東芝府中工場に突きあたり左へ迂回する。

ついでに白明坂に寄る。

 

Img_6016白明(しらみ)坂 《地図

鎌倉街道裏街道で、分倍河原に向かう新田軍はこの道を通ったともいう。『府中市の坂①

 

Img_6017説明板

 

Img_6022武蔵台緑地を抜ける。

黒鐘公園で上の道に戻る。

 

Img_6025武蔵国分尼寺跡

 

Img_6033切通しの道となる。 《地図

車は通行禁止だ。

 

Img_6046右に上ると尼寺北方の塚
左へ上ると(伝)祥応寺跡

 

Img_6037尼寺北方の塚上から(下はJR武蔵野線)

中世(14~15世紀頃)に、種々の祈願の成就を得るために、作法に則り本尊に対して祈祷するために築かれた修法壇跡で、(伝)祥応寺との関係を有するものと推考されるそうだ。

 

Img_6043(伝)祥応寺跡

鎌倉時代末期に立てられた寺跡で、国分寺駅の北の本多四丁目にある祥応寺の前身にあたると考えられている。

 

Img_6044説明板

 

Img_6058東山道武蔵路跡 【ル-ト地図】の12

古代に都と東国の山間地の諸国とを結ぶ東山道が、上野国府と下野国府間から分岐して、武蔵国府とを結ぶ往還路として整備された官道の遺構。

 

Img_6051説明文①

 

Img_6052

 

Img_6068東山道武蔵路跡は300mほど歩道として整備されている。

鎌倉街道上の道は東山道武蔵路の西側を通っていた。『鎌倉街道上道』に推定地図あり。

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