2007年3月21日

百合ケ丘駅(小田急線)・・・長屋坂・・・高石神社・・・布子坂・・・二親供養像・道祖神・・勝坂(かちざか)・・・匡真寺・・・追分・・・十二神社・・・(新百合ヶ丘駅)・・・弘法の松公園・・・新田坂・・・大坂・・・柿の坂跡・・・(小田急線)・・・修廣寺・・・道庄坂・・・五月台駅(小田急線)

 長屋坂は百合ケ丘駅の北側から高石神社まで上る急で長い坂です。神社から南に行くと南東方向に細い布子坂が下っています。確かに陽射しを背に受けて温かくなる坂です。西に千代ヶ丘の方へ進み、北条氏と上杉氏の戦さの伝承のある勝坂を上りました。昔は崖を直線的に上る急坂だったようです。

 小田急線沿いの津久井道まで戻り、追分坂を下りました。今は車の往来の多い広い通りで昔の面影はありません。坂沿いの崖も工事中で坂下にあるという馬頭観音や地神塔も撤去されてしまったのではと思っていましたが、コンクリートの壁に木の小祠を埋め込んで造って安置してありました。坂下の十二神社も最近に建替えられたばかりで、木々もなく明る過ぎておごそかな神社の雰囲気はありません。

 新百合ヶ丘駅の東側に出て、弘法の松公園に寄り、長い新田坂を下り、西に向って大坂を下りました。ゆるやかで、そんなに長くもなく今は大坂とはいえない坂でしょう。
 麻生川の山口橋あたりから上っていたという柿の坂も今はなく、崖を巻くように車道が通っています。「柿生」の名にふさわしい坂名だったのにちょっと惜しい気がしました。(坂名の由来は直接、柿の木と結びつくものではないですが) 

 再び小田急線の西側に出て西に進み、修廣寺に寄りました。参道の前には地蔵さんなどが並び、小高いところに仁王門がある山寺の雰囲気のある寺です。ちょうどお彼岸で墓参りの人が目立ちました。さらに西に行き柿生学園の南の片平と白鳥の境の道庄坂を下り、広い通り(137号線)を東に、片平小入口交差点から北に入り五月台駅に出ました。

 【地図  

Dsc06145庚申塔(百合丘駅西口近く)

4689
長屋坂(坂下から) 
高石1丁目と3丁目の間を北方向に上る。坂上に高石神社。《地図》 

昔、ここに長屋門があった。

Dsc06155坂上近くから

Dsc06159高石神社(高石1-31)

以前は伊勢宮と称し、あたり一帯は伊勢の森と呼ばれていた。

Dsc06160「厄払い」由来書

源義経が奥州征伐の折、ここで厄払いの神事を行ったという。

4690
布子坂 
高石1-7と1-15の間を南東に下る。坂上は階段。《地図

昔の人は布子を着ていたが、日中、この坂を通ると背中に陽があたり、暑くてこの布子を脱いだということから「布子坂」といわれるようになった。

Dsc06169坂下方向

Dsc06172坂上から

Dsc06174_1二親供養像(右)・道祖神(左)

勝坂の坂下近く

Dsc06173説明板

Dsc06179勝坂説明板

上杉氏と北条氏の小沢原の戦(享禄3年(1530))で、北条早雲の孫の新九郎氏康が初陣で勝利をあげ、「勝った、勝った」と勝どきをあげてこの坂を駆け上ったことからついた坂名。

4691
勝坂(坂上方向) 
千代ヶ丘5-7と5-9の間を西から北西方向に上る。《地図》 

Dsc06177_1坂上方向

Dsc06181坂上から

柳田國男がここを訪れた時、江ノ島が見えたという。柳田國男ゆかりの地は『利根町散歩①

4692
追分坂 
新百合丘駅の北側を小田急線に沿って北東に上る津久井道。《地図》 

このあたりは、多摩川水系と鶴見川水系の分水嶺にあたり、また弘法の松への道と万福寺への分岐点で、追分と呼ばれていた。

Dsc06192坂上方向

Dsc06196地神塔(右)・馬頭観音(中)・何の像か?(左)

追分坂の坂下近く

Dsc06205_1十二神社(万福寺304)

正徳元年(1711)の創建という。つい最近に建替えられた。

Dsc06201石仏(地神塔?)(十二神社内)

正徳4年(1714)の銘

Dsc06203_1庚申塔(十二神社内)

正徳2年(1712)の銘

Dsc06209_1弘法の松公園(百合丘2丁目。弘法の松交差点近く)

弘法大師が諸国行脚の折、この地に寄り植えた松という。高さ30m、幹回り8mの大木だったが、昭和31年に火災で枯れてしまった。

4693
新田坂 
弘法の松交差点から南方向に下る。《地図》 

新田開発に伴ってできた坂。しんぜん坂ともいう。

Dsc06219_2坂下方向

Dsc06220坂上方向

4694
大坂 
上麻生2-27と2-28の間を北東に上る。《地図》 

街道随一の急坂だったという。何街道なのか、今は全然急でなく、さほど長くもない。

Dsc06229_2坂下方向

Dsc06230坂上方向

4695
柿の木坂跡あたり 
上麻生3-14の「つくしの里」そばの山口橋(麻生川)あたりから崖を上る坂だったのだろう。

ある時、柿籠を沢山背負わされた馬が、この崖からすべり落ちて死んだ。それ以来この地を「柿の坂」と呼ぶ。

Dsc06235修廣寺前の地蔵

Dsc06236_2庚申塔

左は元禄11年(1698)の銘

Dsc06244_1修廣寺仁王門(片平2-8)

Dsc06242_1阿像

Dsc06243吽像

4696
道庄坂 
片平5-14と白鳥1-1の間を北東に上る。《地図

「道庄」は地名か字名か?

Dsc06252_1坂上方向

Dsc06254地神塔(片平5-12あたりの道路沿い)